山内志朗『〈つまずき〉のなかの哲学』

  • どこにも行かない

 このエネルゲイアの特質を整理し、分かりやすく説明しているのが、藤沢令夫の『イデアと世界』だ。そこでの重要な一節に以下のところがある。

 時間の内になく、〈どこからどこへ〉によって規定されないとすれば、当然「速く」「遅く」をそれについて言うのは無意味であり、したがってまた、「能率」や「効率」とも無縁であろう。そもそもここには、「能率」や「効率」の観念に内包される努力目標・到達目標としての「結果」や「所産」というモノが、存在しないのである。そういう外在目的によって限定されないというのが、エネルゲイアをキーネーシスから区別する根本的特質であった。
 われわれは内に省みて、たしかにこのような特質によって定義されるほかはないような行為・経験が存在することを、確言することができるであろう。手近なところでは、例えば、詩と散文と類比的に、舞踏が歩行と対照されて、「舞踏はたしかにひとつの行為体系には違いないが、しかし(歩行と違って)それらの行為自体のうちにそれ自身の窮極を有するものである。舞踏はどこにも行かない」(ヴァレリー「詩と抽象的思考)」)と語られるとき、それはアリストテレスエネルゲイアの特質として指摘するところと、不思議によく符合している(藤沢令夫『イデアと世界』)。


 歩行がキネーシスであるとすると、舞踏はエネルゲイアなのだ。舞踏は盆踊りに典型的に見られるように、〈どこからどこへ〉という動きではない。しかし、エネルゲイアの典型例は、アリストテレスによると、「生きること」それ自体である。
 藤沢令夫によると、人生それ自体がエネルゲイアであるというアリストテレスの言明は「われわれに衝撃すら与えるであろう」と述べている。たしかにこれは途方もない主張だと思う。人生はすべての瞬間のそれぞれにおいて完成しているというのだから。p207-208