清荒神清澄寺

070304.jpg


散歩がてらに清荒神まで。ついでに鉄斎美術館に寄って「鉄斎の祝慶画」展を覗く。鉄斎の絵を見るのは好きだ。豊かというひと言ですませてしまうのは、あまりに貧しいが、そういうこちらの拙さを赦してくれる大きな絵だ。絵そのものが寛さをもっているから、こちらの狭さを糺してきたりはしない。むしろ見ている人間のほうがずっと豊かなはずですよ、本当は、と教えてくれるような絵だ。生命は様々なかたちをとってつながれていく。遺伝子に限らない。鉄斎の絵は、わたしにわたしの生があるということに、また、わたしが言葉とともに生きているということに、あらためて気づかせてくれる。

 すなわち、われら三者の関係はかくあるのだ。わが心より愛するは、ただ生命のみ。−−しかも、まことに、そを憎むときに−−こよなく愛する!
 われが智慧に篤く、しばしば篤きに過ぐるは、そは他なし、智慧がよく生命を想わしむるにあるからだ!(『ツァラトゥストラ』第二部「舞踏の歌」より−竹山道雄訳)


「蓬莱僊境図」には、「自ずから是(これ)蓬壺(ほうこ)の天にして老いざるにより、瓊(たま)のごとき桃花の底(うち)にあって長春に酔う」と読める賛がある。海は荒れている。二羽の鶴(親子?)が、それこそ生命と智慧のように岩上に並びたち、でも微妙にちがうところを見ているような。「猿猴捉月図」は、手をつないで枝にぶら下がった三匹目の猿が、やっと水面の月を掬おうとしている絵だ。賛には「人間万象水中月」と見える。その字がまた生命そのもののように踊っている。「青龍記雲図」の黒雲を纏う龍の淡い青がいい。「寿老人図」には、老人(寿)と蝙蝠(福)と鹿(禄)が描かれていて、「福禄、寿を先と為す」(大切なのは長寿であって、福と禄はこれに次ぐ)の賛がある。皆、88、89歳の作である。短命といい短寿とはいわない。寿とは「老いるまでに受ける久しい年」を意味するからだろう。画像は(小さくて見えにくいが)「普陀落山観世音菩薩像」(やはり89歳の作)。