『善き人のためのソナタ Das Leben Der Anderen』

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@シネ・リーブル梅田。漱石『行人』に、Hさんがドイツ語の諺「Keine Bruecke fuehrt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)」を告げる場面がある。それに対して一郎は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」から借りた言葉「Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit!(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)」を返すのだが、この映画を見終わって、ふいにそのやりとりを思い出した。そして宗教、狂気、自殺の、どれに行かなくってもいい、人と人とのあいだに架かる橋もあるんだな、と。
自分は安全な場所に身を隠しておいて、距離をおいて他人の生を覗き見、監視するだけのはずが、いつのまにか対象は距離のとれない自己像にすり替わってしまっている。他人のライフが自分の生になる。いや、そもそもわたしたちは「わたし」になったそのときから、すでに他人なのかも知れないではないか。人間は変わるし、変われる。きっかけになるのは音楽かも知れないし、タイプライターかも知れない。それを奏で、聴き、叩き、読むのは人間だ。悪しき人たちのために流される血ではなく、善き人たちのための赤いインク。
ここで謳われている善(ただしそれは小声で、囁くようにではある)が、人間に所与のものとしてではなく、その変化や行為のうちにひょっこり浮かびあがるしかないものとして描かれているのに対して、他方、一見退けられたかに見える悪については、善(への意志)がむしろそれを生むという側面よりは、人の生存から引き剥がすことのできない、人間の根源性として、それが強調されているようでもあり、いっそう善のありがたさが身にしみる。
ウルリッヒ・ミューエは達者だし、マルティナ・ゲデックも魅力的だけど、セバスチャン・コッホが、かっこいい。ガブリエル・ヤレドの音楽もいい。フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督・脚本作品。
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