四方田犬彦「先生とわたし」(『新潮』3月号)

読了。「すべてデタラメ」。この言葉をしかし、自分に言ってくれる人はもういない。わたし自身に引きつけて読むと、感想はそうなる。もっとも、わたしの場合、師に嫉妬されるほどの弟子では、決してなかった。あるいは、わたしの師は、ここでジョージ・スタイナーと比較されつつ紹介されている山折哲雄(『教えること、裏切られること』(講談社現代新書))による、ありうべき三通りの師弟関係のうちの「老子の道」、すなわち弟子をもたない道を選んでいたようにも思うのだが、いずれにせよ、すでに亡くなってしまった師との和解に、それが一方的にしかありえないがゆえに、より一層の時間がかかる、といった複雑な事情は、わたしにはない(ウソ)。それより、師から受けた感化をどうかたちにするか、それがわたしのまだクリアできていない、まずの課題なのである。
エロス的な関係を含みながら、はからずも受けてしまったり、与えてしまったり。そんな感化について、考えることは(考えるだけならば)、できなくはないだろう。しかし、感化の自覚と共に生きることは、自己韜晦に無自覚ではいられないこの種の文章をしたためることと同じくらいに難しいことだ、と思う。もちろん四方田氏は、師の評伝というスタイルが引き寄せてしまう陥穽に自覚的であり、可能な限りそれを回避しようとして用意周到である。またどうやったところで逃れきれそうにない(時間もこればかりは解決してくれない)自らの盲目性についても、自己保全的な心配のもとに匿うのではなく、それを外にさらけ出す覚悟ができたのだろう(もちろん、それで自己演出が排除されるというわけではない)。それはたとえば、結び近く、氏が持参したカップ酒を墓碑に刻まれた師の名に向けて「じゃあじゃあと振りかけて」みせる姿にも明らかだろう。そしてこの言い回しのうちに「もうこの人は自分の先生でも何でもない」と記されただけで、その名が明かされないままになった四方田氏の、もうひとりの師の影をちらっと見た気がしたのは、わたしだけだろうか。
由良君美還暦記念画文集『文化のモザイック』(緑書房)の冒頭を飾ったとされる矢川澄子の短詩が印象深い。

ゆめをかたることは
らくないとなみだろうか
きびしさをかくごで
みずからのみちをゆく
よのうきしずみをよそに
しぶとくしかもしなやかに