[memo]『幼児期と歴史』


幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

じっさいにも、わたしたちがインファンティアという言葉でもって思い描いている超越論的歴史的な次元は、まさしく、記号論的なものと意味論的なもの、純粋言語とディスクールのあいだの「断裂点」に位置している。そして、いわばその根拠を提供しているのである。人間がインファンティアをもつという事実(すなわち、話すためには、インファンティアから脱して、みずからを言語活動における主体として構成しなければならないという事実)こそは、記号の「閉じた世界」をうち破り、純粋言語を人間のディスクールへと、記号論的なものを意味論的なものへと、変貌させるのである。インファンティアをもっているかぎりで、つねにすでに話す存在ではないかぎりで、人間は、言語を根本的に変貌させることなくしては、言語をディスクールとして構成することなくしては、記号の体系としての言語のなかに入ることはできないのである。「インファンティアと歴史」p98

 文は,音素や形態素とはちがって,上位の単位の潜在的な成員である弁別的単位の類を構成しないが,この事実からして、他の言語的実体とは根本的に異なっている.この差異が生ずる根拠は,文は記号を含むが,それ自体は記号ではないからである.(中略)
 音素,形態素,語(語彙素)は,数えることができ,その数は有限である.文は,そうではない.
 音素,形態素,語(語彙素)は,それぞれのレベルで分布をもち,上位のレベルで用法をもつ.文には,分布も,用法もない.
 語の用法の目録には,終わりがないが,文の用法の目録は,始めることさえできまい.
 文は無際限の創造,限界のない多様性であって,活動していることばの生命そのものである.このことからわれわれは,文を最後として記号体系としての言語の領域に決別して,他の世界,話(わ)discoursをその表現とする,コミュニケーションの道具としての言語の世界に入るとの結論を得る.
 この両者は,同一の実在を擁しているとはいうものの,まさに相違なる二つの世界であって,その道は絶えず交差しながらも,相違なる二つの言語学を成立させる.(エミール・バンヴェニスト「言語分析のレベル」『一般言語学の諸問題』p140-141、みすず書房、1983年)

遊び道具の本質的な性格は……なにか特異なものであって、「かつては……であった」と「いまはもう……でない」という時間的次元においてのみ捕まえることのできるものなのである。(ただし、ミニチュアの例が示しているように、この「かつては……であった」と、この「いまはもう……でない」を通時的意味においてだけでなく、共時的意味においても解するとして)。遊び道具は、聖なるものの領域か実践的−経済的な領域にかつては属していたが、いまはもう属していないものなのだ。「おもちゃの国」p126