『石の葬式』


石の葬式

石の葬式


パノス・カルネジス(1967〜)は工学の博士号をもっていて、鉄鋼会社で働いた経験があるらしい。ジョン・クッツェー『恥辱』の半面であり、それが前面に押し出されていた卑俗な部分を全面に広げたような小説なのに、その味わいは、映画と演劇ほどにも違う。よりマジカルでミスティックな話を、でもずっと平静に読んでいられるのは、性描写がほとんどないということだけじゃなくて、全部で19の(やや長めのものから断片に近いものまで)の短篇の連なりでもって組みあがっていく世界だということもあるし、語り手と語られる世界とのあいだに一定の距離(なんていうか、世界はこのようにこうあるのであって、ほかにどうしようもない、というような、そんな諦念というか開き直りのようなもの?)があって、それが安定しているせいなのかもしれない。たとえば「冬の猟師」という短篇では、村に迷い込んだ猟師が語り手になっている。が、それでも「世界」との距離は変わらない。
ギリシャの郡都から遠く、したがってエーゲ海からも、文明の利器といったものからも遠く離れた、やがてはダムの底に水没することになる谷間の寒村が舞台。個性味あふれる村人たちの幾人かに焦点をあてて、その痩せて貧弱な、それでいて骨太で逞しい生活と、それに纏わるエピソードの数々をシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』式に描く。舞台がギリシャだから余計にそう思えるのだろうか、登場人物の名前を変えさえしたら(「サーカスの呼びもの」という短篇が実際そうなっているのだが)、そのまま神話にでもなりそうな話ばかり。
素直で怪しい村人たちは、倹しくて見栄っ張り、明け透けで非情、狡賢くて間抜け、投げやりで念入り、慎ましやかで放縦、厚顔で傷つきやすく、小心で強欲な神様たちだ。彼らは皆、意地らしく可愛らしい。陰惨な場面もあるが、全体的にユーモラス。長いものに読み応えがあるが、短い話のオチも秀逸で楽しめる。そしてクラシカル・ミュージックやファイン・アートとは無縁のこの世界にはしかし、復讐というものがしっかりとある。たとえば「野獣の日」「収穫の神の罪」などがそうだが、復讐劇を壊しているのか、それとも重層化しているのか、いずれにせよ単純な復讐劇で終わらせていない「石の葬式」や「四旬節の最初の日」が好み。原題は「Little Infamies(ささやかな不道徳)」。エピグラフとしてカヴァフィスの詩「今は詮なし」が中井久夫の訳(『カヴァフィス全詩集』)であげられている。

短編「石の葬式」についてもう少し(以下、ネタバレ)
突然の大地震が村の墓を暴き、18個の石だけをつめた棺が出てくる。神父がその秘密を探るなかで浮かびあがってくるのは、ある父親が自分の子供たちに対して復讐し、今度は大きくなったその娘たちが父親に復讐をし返す話である。男はお産で妻を死に追いやったふたごの娘たちを憎み、長年のあいだ地下室に閉じこめ家畜以下の扱いをする。11歳になった娘たちは父親の隙を見て逃げ出す。「たとえあいつらに翼が生えたとしても、絶対に見つけてやる」。追うのをやめれば、追われることになるのを、たぶん男は知っている。追跡をはじめて7日目の夕方、精根尽きた父親は、南へ飛んでいく鳥の群れを眺めながらこういう。「たぶん、あの娘どもは本当に翼を生やしたのだろう」。男はふたりを追うの諦めて家に戻る。
ふたごたちは、女小鳥商に出会い、彼女を「母」として育ち、小鳥の捕獲や飼育だけでなく言葉や歌も学ぶ。これが彼女たちの生きる力になる。そして7年が経ち、いよいよ復讐となる。ふたごたちから過去の経緯を聞いた「母」は、「娘たち」に代わって復讐を買って出る。ちょうど自分が罹ってしまった肺結核をふたごたちの父親に感染させてしまおうというのだ。もちろん、目の前に現れたのが、いくら老いさらばえ病み窶れた婆さんであっても(いや婆さんだったからこそ)、それが「娘たちの帰還」であることに気づかない父にとって、彼女は不気味なものでもなんでもない。しかしそれが油断となって彼は、まんまと肺結核に感染してしまう。娘たちは歌手として新世界に羽ばたいていく。
ひねりが効いているのはこの後だ。村はずれにひとりで暮らし今は病に伏せっているふたごたちの父親を神父が訪ねたのは、誰もがそう遠くない彼の死を確信しているときである。そのときに男が口にする言葉、「おれの悪魔には翼があるんだよ」「いつも夢に出てくるんだ」は、彼のもとに「娘たち」が何度もくり返し帰ってきていることを示しているのだが、それらはしかし、予想されたはずの結末を導かない。それどころか、その前に暗黙の了解を裏切る次の言葉を吐いた父親こそが、かえって神父に不気味なものを突きつけていたのだ。「『本当さ、神父さん。だんだんよくなっているんだぜ』/神父は自分の信仰が犬のように思えてならなかった。長年、餌を与えてきた犬に、目の前で逃げられたような気分だった」。ここで追われる父親の立場に神父が入れ替わったことは明らかだろう。小説には、神父は抗生物質という「科学」が「神の仕事を邪魔」したことに落胆した、と書かれる。「神」の名でもって抑圧されてきたものの回帰。しかしそれが「悪魔」と名指されてしまうなら、そんなものに慣れっこの神父には「もちろん恐くない」ものになる。だから神父は戦いたりしない。体をすくめてみせるだけだ。そしてふくろうは夕暮れの空を星がすでに光っている空を谷へ飛んでいく。