『硫黄島からの手紙』

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@伊丹TOHOプレックス。以下、やはりネタばれ。
硫黄島の黒い砂浜は、画面いっぱいに映されたら、それを星空と見まがうほどだ。栗林中将(渡辺謙)は徒歩で島を踏査する。部隊は転戦を余儀なくさせられる。洞窟のなかを、禿げ山の山あいを。にもかかわらず、このたぶんは意図的な、画面の奥行きのなさ、閉鎖性はいったい何なのだろう。たしかに俯瞰が少なく、展望がない。視界の開けがないのは、何の謂いか。戦う相手を知っている中将は、自分と意見を異にする下士官たちをまともに相手にはしないものの、日本軍(大本営)の、国民に対してだけでなく、自軍に対しても行うようになった情報操作にはしかし嘆きながら自分を取り巻く周囲の者たちの見通しのなさに抗うべく、そして現場を足でたしかめながら最善の作戦をたてるべく、ひたすら地図をにらむ。
犬が歩いていない島。馬が生き延びられない島。そして犬の声が消されてしまう日本。オリンピックをともに戦った馬の毛をペンダントにして首からぶら下げているバロン西伊原剛志)と指揮官としての訓練を受けた米軍から贈られた特製のコルト・ガバメントを腰にする栗林との、ともに騎兵育ちで馬を愛し、「外」を知るもの同士の交情は、日本人のなかにも犬や馬を自分たちの仲間として生きる人間がいることを示している。海岸での画面を埋めるように横切る馬の量感は、地雷を抱えて伊藤中尉(中村獅童)が自爆の機会を待った戦車以上に圧倒的である(ていうか戦車、ついにこない)。何かがもったいないとわかるほどには、お前はじゅうぶんには生きていない。西郷(二宮和也)が憲兵隊を落伍して送られてきた清水(加瀬亮)にいうセリフも印象に残ったが、それ以上に、バロン西が部下に負傷した米兵を看護するように命じたのと対照的に、米兵が投降してきた日本人捕虜を射殺するシーンがあることも忘れがたい(もちろん平等に、この反対の場面も用意されている)。
家族の、仲間の、声をかき消す憲兵の行為、大本営の命令。しかしラジオは、故郷の子どもたちの無垢な歌声をも届ける。そして手紙こそは、時空を超えて届かないところへ声を届けるメディアであり、じっさい映画は、手紙の文字を声に出させること(生かし生き延びよ)によって、命令の声(殺せ死ね)に対抗させるのだ。栗林は西郷だけを残し、自分の所持品や書類などと一緒に兵隊たちの手紙もすべて燃やせ、と命令する。そして二度あることは三度ある、と。それは、俺は死ぬがお前は生き延びよ、という声でもある。西郷はしかし、その命令に従いながら命令の一部には背いて、手紙を焼かずに地中に埋める。埋められた声は、いつか甦ることだろう。中将は最期に、そして西郷は生かされて、ともに横たわりながら海を見る。それらは青く赤く、そして海は近くて遠い。

(追記)書き忘れてたけど、パン屋だったという西郷の家に並んでた調度品が、ちょっと美しすぎるくらいだったなあって、瀬戸物なんか、とくに。戦場では雑草汁にふさわしい?凹んだアルマイトカップ