『じぶん・この不思議な存在』

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顔が呼びかけや訴えとしての〈顔〉として迫ってくるような映画は、しんどい気もする(ほんとうはそれを求めているだけに?)。画面に映るあれやこれやの物量で圧倒し、その速度で幻惑し、あるいはカットで転調をくり返したりしながら、顔が必要以上に〈顔〉にならないようにすること。それに似たことは『父親たちの星条旗』でも感じたのだが、そしてイーストウッド自身が出演しないことなんかも、そういう問題と関係しているのだろうか、実際のところ、スクリーン上のイメージにすぎない顔が、映画館の外の世界では否応なしに向き合わねばならないあの〈顔〉になって一方的に迫ってくるのは真っ平ご免被りたい、ということなのかも知れない。しかし自分の顔もまた〈顔〉としてそれに向けて差し返すことができなければ、自分が自分であることさえ確かめられないようなたぐいの他者の〈顔〉があるのだとすれば、それに対しては身に纏ったモノたちでもって追い払うというわけにはいかない。
ソクーロフの映画の素人俳優たちの顔には、反復から生まれでてくる型のような、プロフェッショナルな演技によってもたらされる表情は見あたらない。むしろそうした演技以前の、素材としての顔そのものがそこにあり、しかしそれだけにかえって、もっと向こうの、いや無限の彼方にあるような、命令を下しておきながらしかしそれに対するこちらの応答はけっして届かないような他者としての《顔》(レヴィナス的な?)が、これはまた性的な魅力とは別に(別に?)、そこに見えてくる、そんな気もするのである。


「〈顔〉を差しだすということ」という文章が、下の本の第五章にあります。

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)