『パレスチナ・ナウ』


パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間

パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間


memo:それぞれ『ミュンヘン』『ライフ・イズ・ミラクル』『エドワード・サイード OUT OF PLACE』への言及

ひとつは一九七三年七月二一日にリレハンメルにおいて無実のモロッコ人を誤って殺害してしまい、暗殺集団のある者たちが官憲に逮捕された事件であり、もうひとつは一九七四年一月一二日にスイスのキリスト教の教会内部で暗殺を企てようとして失敗した事件である。スピルバーグはこの二つの事件を省略した。教会での殺人は、もし公開されたとすれば、欧米の観客のうちに反ユダヤ的感情を呼び覚ます危険から、削除されたのだろう。だがもうひとつの、モロッコ人誤射事件は、逃げ切ったアヴナーたちに取り返しのつかない衝撃を与えたはずである。私見ではあるが、このフィルムの最後の場面に登場するクロスカッティングにおいてもっともふさわしい光景をもし選ぶとすれば、それはアヴナーが直接に立ち会ったことのないミュンヘン空港での人質殺害の光景などではなく、むしろ主人公たちの個人的なトラウマとなったと思しきリレハンメルでの失策ではなかったのだろうか。p26-27

 考え方によっては、これは危険な綱渡りといえる。なぜなら少しでも緊張関係を失うならば、この試みは観光主義の期待の地平にすっぽりと回収されてしまう恐れがあるためである。『人生は奇跡』はその意味で、きわめて微妙な場所に置かれた作品であるということができる。クストリッツァはすでに存在しなくなって久しい祖国ユーゴスラヴィアを唯一の根拠としながら、ベオグラードでは孤立し続けている。彼は民族と国家の表象を映画に求めるという民族主義的な理念から懸命に距離を取りながら、同時に西側が誘いかける普遍主義の誘惑をも拒否し、あえてローカルな次元に留まり続ける。バルカンというステレオタイプを身に纏うことも恐れず、混沌とした陶酔の夢想に耽る。人はそこに、今日きわめて希有な存在となってしまったユートピア主義を発見するはずである。p260

佐藤真の新作からわれわれが受け取るのは、この概念の提唱者であったサイードの人生そのものが、実はオリエンタリズムの圏域内で生じた事件であったという痛ましい認識である。もちろんそれは当の本人に、充分に了解されていたことであった。オリエンタリズムとはけっして外部の存在ではなく、それを認識するものの内部に深く宿っている。このフィルムが指し示しているのは、そうした真理であるように思われる。p304-305