『ベルクソン』


ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)

ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)


memo

 すでに触れたとおり、仏とそれ以外の生物とで同じ要素が共有される点に、空海は即身成仏の大きな論拠を見た。確かに、そこから行動への促しまでは遠いかもしれない。密教的にいえば、「本有(ほんう)の成仏」から「修生(しゅしょう)の成仏」までの距離がある。頼富本宏によれば、「本有の成仏」だけでは、成仏は可能性にとどまるだけであり、現実に修行され、体得される成仏、すなわち「修生の成仏」にいたって、はじめて即身成仏といえるという(『密教』一九八八)。ここでは、より一般化するために、「本有の成仏」を潜在成仏、「修生の成仏」を顕在成仏と呼ぶことにしたい。
 ベルクソン哲学において、潜在成仏を語りうることは、前節で述べたところからも明らかだろう。あらゆる生命体が持続を共有すると見なされるからだ。そして、持続のもっとも凝縮されたありようが、生ける永遠と呼ばれていた。この生ける永遠とは神のありようを、密教的には大日如来のありようをさすだろう。いずれにせよ、神仏のありように、たとえ部分的にであれ、何らかのかたちで到達すること、それが顕在成仏である。ベルクソン哲学において、それはなによりも行動によってあかされる神秘主義にほかなるまい。神秘家とは、要するに顕在成仏の人なのである。p151-152