『ディア・ピョンヤン』

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@第七芸術劇場。父を中心とした家族を娘が撮った映画(ドキュメンタリー)。民族運動の活動家であり、総連の幹部として3人の息子を「帰国」させた父と1人残されて日本で育った娘。彼らのあいだには当然違和があり、にもかかわらず互いを思う気持ちがあり、したがって歩み寄りがある。もちろん時間はかかる。胸を張る父を仰角で撮り、自転車の父の背中を歩いて追い、布団に寝転がる父を同じ目線で見守り、ベッドに横たわる父を俯瞰で見据える。一方で、笑顔を絶やさない母がいる。彼女は息子たちや孫たちにだけでなく、沢山の親戚にまで、決して少なくはない仕送りを続けている。鉛筆、消しゴム、栄養剤、使い捨てカイロ等々を、きれいに仕分けして幾つもの段ボールに詰めて。そして万景峰号
「親にしかでけへん」と母、「それ名言やな」と娘。「皆、言わはるよ」と返す母。わたしも亡くなる直前の母親に「親がおるうちや」と言われたことがあって、「親」というのはわたしにはちょっとしんどい言葉ではある。私たちはこの言葉を動物にも使う。親株、親会社、親本という言葉だってある。「物事の生ずるもと」であり、「同類が次々に現れる、その最初」、元祖であり、拠り所、中心、小さいものではなく大きいものをいう。その親を狭いイデオロギーに閉じ込められた不幸な人間としてではなく、自分と同じ自由な選択が許されたひとりの個人として認めていくことで、自分もまた自由な一個の個人として父から認められていく娘。もちろん、そこには「選択」なんてそんな簡単なもんじゃない、そもそも人間に「選択」が許されているのか、といった声が同時に漏れ聞こえてくる。
妹の知りたいことについて、兄たちは揃って口をつぐんでいる。沈黙でもって応答不能な自らのいまを引き受け、あいまいな笑顔だけをそっと差しだすほかない彼らだ。やっと口を開くようになった父の「行かさないでもよかった」という言葉からも、彼が予見しきれなかった選択の帰結に責任をとろうとしてきたことは明らかだ(しかし、だれが行為の帰結を予見できるというのだろう)。そして選択の帰結を受けとめる以外に、過去の選択を他ならぬ「自分の選択」にする手だてはないのである。つねに遅れながら次々に生まれ出てくる予期せぬ自己を引き受け、それらをも自己自身として生き続けようとすること。父親が口にする言葉で印象的だったのは「継続」である。生命が運動であり、持続であることを深く思わせられた梁英姫ヤン・ヨンヒ)監督の映画だった。でも平壌には犬猫はおらんのん?