『太陽』

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@第七芸術劇場。十三は久しぶり。ソクーロフの映画は『エルミタージュ幻想』以来。だれであれ神であったことなどないのだから、現人神を演じる人は、彼が演じようとしているのがまずは人間であり、その人間が神を演じていた、とでも想定して、それをまた演じる以外にないのではないか。そしてだからこそ、神でもあった人間を演じる俳優が、その真に迫ろうとすればするほど、演じられている当の人物の不確かさとでもいうべきものが、浮かびあがってくるのではないか。グロテスクな、そしてユーモラスな、不透明さ。それは伝説に生きる鵺ではなく、たとえば瓶に詰められたヘイケガニの標本であり、あるいは水溶する墨の空海を、くねりながら飛び泳ぐ蛾魚の姿をした、敵国のものであるはずの爆撃機たちこそが、やはり不気味と言ってよいこの映画の主人公の存在と重なって見える。そしてあまりに美しいのだ、炎にのたうつ街が、歴史そのもののように。いや、ナマズのようにというべきか。しかしいくら人間がチャイルディシュだとしても、その立場上彼はイノセントではありえない。先々代が東京の空に見たという極光。それはヴィジョンか、それとも歌か。光はどこから来るのか。ツルが来たところからだろうか。そして国民の前にやってくる太陽とは、彼が月に徹することでその面にもたらされる光のことをいうのだろうか、この世界を水墨画のように見せてしまう淡いそれのことを。
『樹をみつめて』を、いつものように昂奮と平静を同時に味わいながら読んだ。中井久夫は、そこにおさめられた「戦争と平和についての観察」と題する文章の末尾に「戦争という人類史以来の人災の一端でも何とか理解しようと努めた」と書き、この本の「あとがき」に次のように記している。

 近代は発展を存続より優先する誘惑に政治家も官僚も軍人も企業もとにかく駆られがちである。定義上、天皇(一般に君主)は存続を発展よりも優先させようとする貴重な存在で、これは代替しがたいと私は思う。現に、君主を保っている国は他に北欧三国、ベネルックス三国、英国、など、おおむね治まっている国である。
 昭和天皇の言動は、それぞれの情況において存続を発展よりも優先させるという点から見れば一貫していると私は思う。それは戦後の言動にも歌集「おほみうた」からも読み取れる。


賢者の知恵なのかもしれない。しかしそれがミネルヴァの梟でないとしても、あるいは「存続」は、イッセー尾形演じる人物が口にしていたように、最も消極的な意味での老子の思想なのかもしれない。そのときは、さて、いったいなにが存続するのか。だれの発言だったか、当時の日本で外国に亡命して確実に生き延びられるのは天皇家だけでしょう、という言葉が思い浮かぶ。『ヒトラー〜最後の12日間〜』では、ヒトラー個人に対してだけでなく、彼を総統=バケモノにしたドイツ国民に対してもその責任の追及が(自己批判も含めて)、直接的ではないにしても、なされているように感じられたのだが、『太陽』のソクーロフは、中井久夫同様に、そこに自問や自省はこめながらも、けっして昭和天皇や日本国民を裁こうなどとはしていない。
そして付け合わせのように添えておきたいのだが、マッカーサー以上に、忘れないでおきたいと思うのは、わたしたちのかつての敵国には、その昔、たとえばジャック・ロンドンのような個人がいたということである。皇后役の桃井かおりがその目でもって表現してみせた力も、「母」のものというよりは(それなら「天皇」にもありそうだ)、「個」の根っこにあるものだと思いたい。


樹をみつめて

樹をみつめて

ジャック・ロンドン放浪記 (地球人ライブラリー (014))

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