『宮本武蔵 『五輪書』の哲学』


宮本武蔵『五輪書』の哲学

宮本武蔵『五輪書』の哲学

デカルト的直観には、前も後もない。時間というものがそもそもない。一切を疑って立ち止まり、或るものが「明晰、判明」に現われる超越的な瞬間を待っている。人間の思考は、そもそもそういう瞬間とは縁がないと、パースは言っているわけです。彼は、実に熱烈に「実験家」たろうとしました。どんな対象であれ、物事は実験的な過程を通してのみ知ることができる。この場合実験とは、未来に対して目的や意図や有用性を持った「行動」にほかなりません。この行動のなかにはっきりと示される自然法則は、否応なく記号の連鎖という形を取る。そうした連鎖から生まれる命題の「意味」は、真実であり、世界のなかに実在すると言ってよい。実在するだけでなく、それは誰もが向かう「未来の行動」のなかに絶えず伸びていき、そこで新しい確証を得ることになるだろう。このことに神などは、必要ない。パースにとって、物事や命題の「意味」は、実現されていく行動の未来に属するのです。p149

ジェームズが言うように、人間が作り出す概念は、こうした知覚機能を非常に遠くにまで押し広げることができる。たとえば、地面に関する地質学の知識はそうやって作り出されます。けれども「概念とは、獣が考えに入れるよりは広い環境にわたしたちを実際に適応させるのに役だつように、単なる知覚的意識の上につけ加えられた能力にほかならない。わたしたちは知覚的な現実という馬を目標へ向けてもっと上手に走らせるために、その馬に概念という馬具をとりつけるのである」(『哲学の根本問題』)。つまり、概念は行動のために作られる。それ以外の作り方を人間はすることができない。できると思うのは、言葉で概念を作れる人間だけが抱くに至った錯覚である。それならそれでよい、馬を最高に上手に走らせればよいではないか。ジェームズは、そう言っているわけです。p153-154

ホモ・サピエンスという言い方は、むろんヨーロッパの近代哲学がしきりと使った「理性的人間」という言葉に対応している。人間なら誰にでも与えられている生得の考える力、これが理性であり、理性は正しく用いれば、この世で知り得るすべてを照らし出す認識能力となる。ホモ・ファベルを言う人はそうではない。人間種にあって動物にないのは、まず道具の使用だという考えを持っている。人間固有の知恵は、認識は、道具を用いての〈行動〉と切り離せない。これは、まさにプラグマティストの考え方です。世界は静止した理性の観想によって知られはしない、身体と道具を用いる行動のなかに、その行動に応じる分だけの世界の姿が現れてくる。何かを知ることは、その何かの、行動における意味や効用を掴み取ることにほかなりません。動物が世界を知るのは、身体の行動のなかだけであろう。この行動に人間の行動が異なるところは、観察上道具の使用よりほかにないのだから、人間固有の知恵は、まず道具を用いた行動に因るとみなすべきである。そういう考え方になります。p156-157


そして、そうした人間と道具とのあいだに、コンパニオンとしての動物がいるのかもしれない。