『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』


ピカソ・ジャコメッティ・ベイコン

ピカソ・ジャコメッティ・ベイコン

ジャコメッティの彫像は、彼のアトリエ(石膏の破片で埋まっていて、それは、彼が寒かろうが、雨が降ろうが寝場所にしていた小部屋に、ずっと前から侵入せんばかりだった)にあるときより、彼の家の中庭や通りにあるときのほうが大きく見える。この相違は、生き物は、閉じこめられていないとなると、いつも伸びひろがるところからくる。もっと合理的な言い方をすると、人間の寸法がわかるのは、戸外においてだからだ。(「アルベルト・ジャコメッティのような人物のためのいくつかの石」p128)

台座を動きと一体化させること、それを彫刻の一部にすること、そのとき彫刻は、見る者と対等の物体か家具のようなものになる。ときとして台座が、それとは逆に隔てを作ることもある、それが、舞台や掛け小屋の、誰にでも(しかし実際には制限がある)開かれた空間を暗示する場合にせよ、それが、事物の置かれている空気積を限定する穹窿となって伸びる場合にせよ、それが、まさしく主役のための容器となる場合にせよ。(同上 p133)

ジャコメッティの偉大さは、彼の企ての結果のなかで、たまたま彼が大目に見た結果(それらが、単なる試み以上の価値を持つことなど否定しつつも)の見事さ−−つねに異様なまでに未完成の−−と同時に、おそらく前例のないその冒険の見事さによっても知ることができる。この冒険とは、さまざまな時代とさまざまな場所において、多くの芸術家が作り出した、刺激となる作品は受け入れつつも、その一方で、まるで芸術がまだ考え出されていないかのようにそれをもう一度とりあげることであり、意識的なプリミティヴィズムとも装った素朴さとも無縁な場所で、たえずやり続けなければならない太古以来の発明を、毎日やり直すことである。(「切手やメダルのなかのジャコメッティ」p143)