『ジャコメッティ』


ジャコメッティ

ジャコメッティ


焦るヤナイハラ。

デカルトパスカルについて学ぶことではなく、デカルトパスカルのように人生から学ばなければならない、そう思ってぼくはソルボンヌの講義をきく代わりに街々をさまよい歩いたが、それは怠惰の口実ではなかったか。第一、街々をさまようことと生活することとは全く別のことではないか。パリにぼくの生活はない、生活のないところには仕事もないだろう。ぼくは日本に帰って仕事をしなければならない。それ以外に自分自身を再び見いだす道はないのだ。そして仕事は、ジャコメッティがしているように、日夜全力を傾け、試作に試作を重ねるのでなければ何一つできはしないだろう。(「ジャコメッティとともに」p69)


叱られるヤナイハラ。

「恐ろしいことだ。」ぼくの顔を描きながら彼は言う、「エジプト攻撃も勿論許しがたい犯罪だ、しかしブダペスト攻撃の方が一層憎むべき悪だ、なぜならそれは戦争ではなく単なる殺戮だから。戦争は害悪だが、エジプト兵はともかく戦場で死ぬ。が、ブダペストでは女子供までが犬のように無意味に殺されているのだ。しかもそれがファシストに対して社会主義を守るという名目でなされている。何という欺瞞だ。畜生!」激怒と苦悩で彼はほとんど仕事が続けられないほどだ。「これで世界戦争になったら大変ですね」とぼくが言うと、「いやきみは間違っている、すでに大変なことが起ったのだ、いまハンガリーで行なわれていること、これ以上の悪、これ以上の悲惨は考えられない。世界大戦になったら大変だというようなことがどうして言えるか」と彼はきびしく答えた。(「ジャコメッティとともに」p138)


励まされるヤナイハラ。

 浮かない顔をしているぼくに向かって彼は言う。「大丈夫だ、私はこれでも昨日よりは遙かによくなったと思っている。明日はもっともっとよくなるに違いない、それは確実だ。」それからまた、「私が自分でいいと思ってもきみの気にいらないことがあるかもしれない。そういう場合があり得ることをこれまで考えたことがなかったが、そういう場合はどうにも仕方がない。」「ともかくも」とぼくは言った。「あなたはハラキリしなくてもすんだわけですね。」「とんでもない」と彼は不吉な考えを急いで追い払うように手をふって打ち消した。「自殺という考えほど思いあがった卑怯な考えはない。」(「ジャコメッティとともに」p122-123)