『フーコー』



フーコーの思考のエッセンスを、主体と客体の逆転、脱自、生の技法に見る。
「私に誰であるかと訊ねないでもらいたい、私に同じ人間であり続けるようになどと言わないでもらいたい−−そんなのはわれわれの身分証明書を登録する戸籍調べの道徳である。せめて書くことに専心していいるあいだは、この道徳から自由でいたい。」
『知の考古学』で、そう書いたフーコーだが、それでも彼が「誰であるか」を探る試み。

 しかし、フーコーは「自己への配慮」を、自己自身を「対象」とする知、しかもその自己の本来のあり方を尋ね求める「自己知」ではなく、自分の身体や他者、その他、外的な世界やそこに存在するさまざまな事物と関わりをもち、関係を取り結ぶ「自己」に寄り添い、そうした関係性において、その「自己」に配慮する働きを重視するのである。ここでもまた、眼差しの比喩を用いるなら、自分自身を鏡に映し出し、改めてこれを一個の対象としてまじまじと見つめるのではなく、何かを見ることを続けながら、その視野の端に見える自分の身体の一部から、その姿勢や動きに気を配るといった見方をすることである。それはより具体的に、相手と話しながら、その相手の表情のうちに、自分が相手に見せている表情を察知するといった配慮のことである。そこに相手との「真理の空間」、つまり「他のように考える」ことを可能にする余地が開けるのである。p109-110