『新しいデカルト』


新しいデカルト

新しいデカルト


すべてはわたしに現れた表象にすぎない(独我論)。
世界は虚構ではなく、われわれからは独立して存在している(実在論)。
これらをデカルトは神でもってつないでみせたけれど、神なしでならどうなるか。
デカルトにおいては、経験的自己と超越論的自己というカント的な区別はない。
対象(「わたしを」)でも手段(「わたしでもって」)でもない「わたし」。
わたしは考える、ゆえにわたしはある。

考えるとは、デカルトにいわせれば、持って生まれたあたりまえの精神の働きを用いることである。このあたりまえの精神の働きである「良識」が「わたし」と等しいならば、考えるとは、自分で考えること以外にない。物質とは延長であり、そして、精神とは思考だ、というデカルトの厳格な分割は、ほんとうはこのこと以外をいっていない。(p25-26)


欲望や無意識といったような心の闇なんて知らないし、要らない。
情動や情念は身体の状態であって、その原因は外に探る。
ちょっとスピノザ的なデカルト、というか、主体とか客体とかから解放されて、もっとプラグマティックにデカルトを読もう、と。
この本には、ヴァレリーやアラン、小林秀雄ファインマンへの扉が開かれている。
みんな、自前で考えた人たちである。

 うっかりしていると、ぼくたちは絵のなかで住んでいるにすぎない。すでに物は描いてある。いわば知識に囲まれてぼくたちは暮らしている。こういう絵の完成は、すなわち社会の完成であり、この世の完成であり、人間の知性はこの完成のためにあるといっていい。ただ、問題は、あんまりこの絵が見事なため、絵とは思わずに実物だと思うことである。
 そうなるとぼくたちは、知るべき対象はもうそこにあり、あとはただ知ればよく、ぼくたちが物をつくり上げるような余地などはない、と思い込む。はじめに絵を描いたことは、もう忘れているから、知る努力が、ほんとうは物を作る努力であったなどとは、思いも寄らない。これが、みずからが描いた絵のなかの住人へと、みずからなりはてた者の思考である。
 じっさい、ぼくなどは、絵を描けといわれたら、家の絵をかいてきた、あるいは花の絵をかいてきた。つまり、家という、すでにぼくにとって絵であるものを絵にし、花という、すでに絵であるものを絵にし、要するに、絵の絵をかいてきた。したがって、描く意味もない。
 画家は、ぼくみたいに二重に絵はかかないだろう。画家がかくのは一枚だ。彼が家の絵をかくとは、家というものをつくり上げることだろう。それまでは、家というものはなかった。彼にとって、描くことは知覚の延長だからである。絵筆が目の延長だからである。
 ならば逆に、ぼくたちは、ほんとうは画家が絵をかくようにして、物を見なくてはならない。だが、ぼくたちは、物は、ぼくたちがつくり上げて知覚しているものだということを、なかなか思い出せない。こういうときである。失敗談が、完成品より、役に立つのは。p176-177