『狩人と犬、最後の旅』

060822.jpg



@テアトル梅田。
声高に叫ばれる言葉よりも、思わず洩れでたような呟きのほうが、心に響くことが多い。
「命というものはつないでいくものだ」
先日見た映画にもほとんど同じセリフがあったので、あれ?と思ったのだが、そこで感じたのは、洋の東西を問わず表現者が同じようなことを考えているんだ、ということ以上に、その言葉の伝わり方の違いだった。
「自然をむやみにアドマイアしない」
「獲物が得られたときには、許しを請うのではなく、感謝する」
「姿が見えなくなっても探さないで欲しい、妻と犬たちを頼む」
この映画は、これらのセリフを聞き落とす人がいても、大丈夫、映像がそうした言葉の意味を含んで、なおそれ以上のものを伝ええている、と思ったのである。
役者ではなく、ノーマン・ウィンターという本物の狩人が出ている、というのも大きいだろう。
しかし、どれほどドキュメンタリーに近いといっても、作り物であることには変わりがない。
だとすれば、伝わり方の違いは、その作り方によることになる。
(大賢人はさすがに、メッセージを叫んだりはしてなかったけどね)


犬にアパッシュという名をつけた理由を尋ねる友人に対して、狩人が、名前は名前に過ぎない、と応えていたのも面白かった。
呪術にしても魔術にしても、どこからでも入ってきそうな大自然を生きる彼が、「本当の名前」などありえない世界に生きる現代人であること(そして彼のその自覚)を、それはよく示していたから。
では、わたしたちの時代における「本当の名前」とはどんなものなのだろう。
そのもの・ことの目に見えない本質のようなものなのだろうか。
でもひょっとすると、つけた・つけられた名前のすべてが「本当の名前」なのかもしれない。
彼・彼女たちの名前を(それがハンドルネームであれ、偽名であれ)、じっさいに声に出して呼びかけ、彼・彼女たちにこの手でふれること。
狩人がいつもそのコンパニオンである犬たちにしていたように。
それ以外に、わたしたちの時代の呪術や魔術などないのではないか。
無線を使い、スノーモビルに頼ることがあったとしても。
(だから新しいメディアにこそオカルトが棲みつきやすいということにもなるのだが)


豊潤かつ峻厳な大地、巨大な空間で圧倒してくるこの映画が突きつけてくるのは、しかし時間だ。
もちろん、そこに移りゆく季節が映し出されるのだし、何よりタイトルに「最後の」という言葉だってある。
それでも、時間をいちばん思わせるのは、絶え間のない運動、カヌーと、馬と、犬ぞりと一体になった、ほとんど引っ切りなしの主人公の移動、なのかもしれない。
マッチの、ローソクの、ランプの、たき火の、それぞれの炎に見ることができる、過ぎてきた・過ぎていく時間とは、またちがった時間。
それは、なんというか、いま、なのである。

 分け前−−次のようなさまざまな場合を仮定し、それに従ってこの世でもそれぞれちがった生き方をしなければならない。
 1 もしこの世にいつまでもいられるならば。
 2 もしこの世にいつまでもいられるかどうかが不確実ならば。
 3 もしこの世にいつまでもいられないことが確実であるが、長くそこに、いられることが確実ならば。
 4 もしこの世にいつまでもいられないことが確実であるが、長くそこに、いられるかが不確実ならば、−−これは正しくない。
 5 もしこの世にいつまでもいられないことが確実であり、そこに一時間いられるかが不確実ならば。
 わたしたちの仮定は、この最後のものである。(パスカル『パンセ』二三七)


パスカルのいう「気ばらし」とは、正反対のものがそこにある。
「なぜなら、いかに王であっても、自分自身のことを考えれば、たちまち不幸になるからである」(一三九)。
いまを生きるノーマンに自分のことなどをあれこれ考えているヒマはない。
ただ彼はいっときたりとも、自分自身がおかれている条件からは(それは、つまりは死ということなのだが)、目をそらさない・そらせないのである。
「おれもアニマルだ」


http://www.kariudo.jp/