『アルベルト・ジャコメッティ展』

060815.jpg



兵庫県立美術館
ジャコメッティの人物はみんなメガネをかけてるね、そう? あれって眼窩じゃないの、えーっ、じゃああれだ、頭蓋だってさわるかのように見えてるってわけ?
というような会話がどこからともなく聞こえてくる。
わたしが立ち止まっているのは、「黄色いシャツを着たアネットの肖像」の前。
うわー、顔がむくむくこっちにせり出してくるね、でもなんで絵のなかの顔までブロンズなん?
またまた聞こえてきた会話に、「作家の父」のブルーが甦る。
これ、削ってるんじゃなくて、付け足しているんだって、へー、それってなんかいいよね、台座とかフレームも大きいね。
思わず、そうそう、って話に加わりそうになって、目の前にあるのは「座るカロリーヌ」「座るカロリーヌの全身像」。
ヤナイハラの頭部の鼻、横顔のヤナイハラの耳と肩、座るヤナイハラの全身像のイエロー、そしてヤナイハラの石膏像のピンク。
これ磔刑っぽく見えるよね、ん? 十字架? なんで胸像は90度横向いてんの? こっちは弾倉を取っ払ったモーゼル銃みたい、でも弾倉だけじゃなく銃口もないよ。
「檻」の第1ヴァージョン、「鼻」。
ソファの脇におかれた図録をめくると「アネット」のシャツの黄色がちょっと濃いような、あれ? もう少し明るい黄色だったはず、そう思って休憩もそこそこに前の展示室に戻ってみると、またまたアレ? 図録の黄色に近い色に見える、ちょっと待てよ、「作家の父」のブルーだって、もう少し鮮やかだったよ、あれれ、あれほどこちらに浮き上がって見えたはずの顔も、見る位置をいくら前後にずらしてみても、もうあれほどには迫り出してこないのだ、とするとわたしは一体なにを見てたのだろ、「見る」を仕事にするなんて、いまさらながら空恐ろしいことなんだなって。
本人の言葉を引いておこう。

  盲人が夜の中に手をさしのべる……


 盲人が夜の中に手をさしのべる。
 日々は過ぎる。そして私は逃れ去るものを捉えとどめえたと錯覚する。
 処置なしだ。先日の私たちの会話のあとであなたが書いた文章を私は読みかえす。書かれてしまうと言われた言葉は失われる。すべての問い、すべての答えは価値を失う。(どの問いに対しても別の答えがなされるだろう。)
 もしも私に作ることが出来るのならば(しかし私がそれを本当に望んでいるのかどうか私は確かではない)、もしも私に一つの彫刻一つの絵画を私の欲するように(しかし私は私が欲しているものを言うことが出来ない)作ることが出来るのならば。もしも私にそれらを作ることが出来るのならば、それらはずっと前から作られていたはずだと私は思う。(ああ、私には輝かしく素晴らしいタブローが見える。しかしそれは私の作品ではない、誰の作品でもない。私には彫刻は見えない。暗闇が見える。)
 しかしこうなると私には何とも答えようがない。その上あなたが私に問いを発しているわけでもない。


 そして私は踊るだろう。
 そして私は番組を次々演じるだろう!
 ああ、それはあまりに美しい、美しい、美しい。
 そして私はでたらめに何でも喋るよりは黙っていたい。(でたらめにアレジアの通りを横切って)馬に乗って木の上を行き、私は叫ぶ、私は叫ぶ、私は叫ぶ、
 ユウウウウウウウウウウ!
 いや、でたらめに葉の繁みを通ってだ。
 盲人が空虚の中に手をさしのべる(闇の中にか、夜の中にか)。
 日々は過ぎる。そして私は逃れ去るものを捉えとどめえたと錯覚する。
 私は走る、とどまることなく私は走る。
 これ以外に何があろうか。これ以上何を言ったらいいのか私にはわからない、しかし私は笑うことが出来る(嘘をつけ)、私は踊ることも出来ない。
 マニア、私のマニアをマニアックにする私のマニアをマニアックにするマニアックなマニア、この人生で、それは、それは、それは、何だと?
 私にはわからない。
 リ・ラ・ロ・ル・ラ
 リ
 リ・カン・ティ・ティ・ティ
 鐘
 穴をあける穴をあける穴
 をあける穴
 眠りをさそう
 厠ではない
 踊りだ。    (『エクリ』p121-123)      


絵画も彫刻もデッサンも、文章や文学にしたって、「そんなものはみな大したことではない」とジャコメッティはいう。
「試みること、それが一切だ。/おお、何たる不思議のわざか。」と。


「試み」は、ここでも行われている。
http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20060712
http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20060711