『雪沼とその周辺』


雪沼とその周辺

雪沼とその周辺


この短編集の中では「ピラニア」という作品がけっこう好きなのだが、最近ちょっと思ったことと関連しそうな「河岸段丘」から引く。

 たしかにそのとおりだ、と田辺さんも思う。故障したとなると、あやしげな個所を特定せずにその周辺をごっそり取り除き、あたらしいユニットをはめ込むだけで果たして修理と言えるのか。局所的に直すかわりに、まわりをぜんぶ取り除くなんて、胃の一部だけ悪いのに、まるごと摘出せよと迫るようなものだ。病巣の一点だけを治療して、周辺の臓器を傷つけず、身体によけいな負担をかけないやり方があるとしたら、そちらを追求すべきなのに。この辺が悪いで済ませてしまうのではなく、大雑把から徐々に問題の箇所へ、つまりピンポイントでよくないところへ手をのばしていく根気が欲しい。分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい、と田辺さんはいつも考えていた。息子や娘とも、もちろん妻ともそんなふうにつながっていられれば、どんなに健全か。単純な構造こそ、修理を確実に、言葉を確実にしてくれるのだ。
 青ちゃんは、その点、ほんとうに徹底しているな、と田辺さんは賛嘆する。自分の「作品」を受け入れてくれた顧客にたいして、最後の最後までその面倒を見ることが、仕事の大前提になっているのだ。p79-80


関係を「ピンポイント」で修正するのは、難しいことかもしれない。
もちろん、前後の文脈からも、語り手も「単純」よりは「構造」のほうに、その「融通のきく」点や「分解して組み立てられる」点に、ウェイトをおいていることは明らかだ。
そしてそのうえで「根気」よく「面倒を見る」ことは素晴らしいことだ、と。
ただし、青ちゃんが「最後の最後まで」そうするのは、自分の「作品」を受け入れてくれた「顧客」にたいして、である。
受け入れてくれない人は、客ではありえても、顧客にはならない。
だからそういう人にたいしては、最後の最後まで面倒を見る、なんてことはしなくてよいのである。
うん、それでいいのダ!(バカボンのパパふうに)


自分の「よさ」をとくに気にもかけていないような「にぶい」ひとは、自分の「わるさ」をいつも気にしているような「するどい」ひとたちには、憎まれやすいものである。
たとえば、悪意や怨恨といった感情から自由な人。
でもだからこそ生きていくのにはちょっと不器用に見えるそういうひとを、(そのままだれかの(だれの?)「作品」として?)「受け入れてくれ」るひとたち(顧客?)もいる。
やっぱり「ピラニア」からも引いておこう。

「いや、ほんとに特別なことはしてないんですよ」
 特別なことはなにもしない。料理も魚の飼育もおなじだ、なにがよくてなにが悪いのだか、自分でもわからないのである。時計を見ようとして袖口に目を落としたら、卵色の麺が一本、服に張りついている。さっきラーメンの湯を切ったときに飛んだのだろう。相良さんがこちらに背をむけてエンゼルフィッシュをじっと観察している隙に、安田さんはそれをつまんで、ピラニアの水槽にそっと落とした。こいつなら、ミミズ状に伸び縮みしながら沈んでいくその紐を、相良さんのワイシャツに染みをつけたご老体のようにちゅるちゅるといたぶったりせず、ぱくりとひと口で片づけてくれるだろう。下あごの突き出た熊手みたいな口先が未知の獲物に近づいたとき、う、と相良さんがあの音を出した。狭い密室だから、いつにも増して響く。大丈夫ですか、と声をかけ、ふと水槽に目を移すと、ふやけた麺は消えていた。ひと飲みにしたのだろうか。だが、そいつのごつごつした顔をいくらうかがっても、味がどうだったのかを読みとることはできなかった。p158-159