『スピノザ』



肯定とくれば、やっぱりスピノザ
『スピノザの世界』っていう素晴らしい入門書をすでに書いている著者は、しかしその本では、スピノザの宗教に対する考えについては、ふれることができなかったのだという。
宗教に対する「いわば聖者とマキャヴェリが同居しているようなスピノザの考えを知ってもらおうとするなら、やっぱりもう一冊書かなければならなかった」と、上野さんは「あとがき」に書いている。

哲学の目的はもっぱら真理のみであり、これに反して信仰の目的は、これまで十分示したように、服従と敬虔以外の何ものでもない。次に哲学は共通概念を基礎としもっぱら自然からのみ導きだされねばならないが、これと反対に信仰は、物語と言語を基礎としもっぱら聖者と啓示とからのみ導きだされねばならない。


したがって−−とスピノザは続ける−−神学と哲学との間には「何らの相互関係も何らの親近関係もない」、無関係だというのである。p57

 こうしてスピノザは宗教を、そして無知なる信仰を、そのあずかり知らぬ理由でもって肯定した。
 そうかもしれないが、でもやっぱり信じてないんでしょう?
 そう、信じてないのである。少なくとも信者が信じているようには信じていない。けれども受け入れている。
 こう言えばよいだろうか。スピノザは宗教を、その真理性という点ではまったく信じていないが、それがそんなふうに言う正しさ、そしてその正しさの解消不可能性という点では全面的に受け入れる。スピノザは真理として肯定するという意味のラテン語affirmareと区別して、両腕を開いて抱き込む、受け入れる、という意味のamplectiという語をニュアンス深く使っているように思う。たとえ真理でなくても受け入れる、のである。こういう受け入れ方は欺瞞的だろうか?p96-97