『季節の記憶』


季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)


たしかに、保坂和志は自分の言葉を読ませる努力をしてきていて、彼の小説はもはやすごい域に達しているのは事実なのだが、『カンバセイション・ピース』よりもこの小説のほうが、そこにある世界に入っていきやすい気がする。
上手な説明や多様な解釈、またそれらの提示の仕方、からくる現実感、ではなくて、言葉にされていない部分が呼び寄せるリアル、とでもいうようなものに対する余裕(それってユルさ?)、がこの小説にあって。

 と言うと、美沙ちゃんは、
 「うん」
 と笑った。その「うん」の調子が「でもことわった」「勝手にしなと答えた」というように僕には聞こえたけれど、それ以上確かめたわけではなくて、もしかしたら「うん」は「うん、いいよ」と答えたという意味だったのかもしれない。
 ゆうべの雨で空気中に浮遊していた塵や埃や煤がすべて洗い流されて、海に向かってずうっと下りになっている車の道から見える空は本当に見事な、”青”という色の概念の基準となっているような深みのある青だった。
 家の屋根の瓦の一枚一枚の凹凸や波状の稜線や、電柱の作業員が足を掛けるボルトの一本一本や、木の葉の一枚一枚や葉を落とした枝の一本一本の先端まで、風がなくて動きが止まっているから凝視してみるといくらでも凝視することができて、そうやって凝視していると空の青とのコントラストですべての物の輪郭が際立っているのが、いつもより遠近感を強めているようにも見えたし、逆に突然距離感がわからなくなって、遠近感なんてものは視覚の経験が作り出したいくつもある世界解釈の決まりごとのうちの一つでしかないといっているようにも見えた。
 地上にある物が一つ一つ指し示すことのできる物で構成されているのに対して、空には何もない。この空の奥には夏の夜に見える星があるはずだがそれらは太陽の光ですべて隠され、ひたすら青いだけで、空が地上にある物と接点をいっさい持たない別の原理で存在しているように見えた。そして実際そうなのだろう。p356-357