『カンバセイション・ピース』


カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)


C・S・ルイスの言葉はこの小説にあったのだった。

 ……私は私で、一人でこの部屋にいるときに外を見ていることが多いけれど、そのあいだももしかしたら私以外の誰かの視線を仮想しながら見ていて、その私と同じものを見ている視線に向かって話しかけているのかもしれないというようなことを考えはじめていた。
 この部屋から見える外の様子は、風景といえるほどの一般的な面白さはないけれど、それでもやっぱりここに住んで時間が経つにつれて、去年の秋ぐらいから何かしらの面白さが感じられるようになりはじめて、それからは私はずうっとここからの眺めを退屈しないで楽しんでいる。
 それはつまり同じ外の様子を毎日眺めつづけた時間か行為の蓄積が自分の中のもうひとつの視線になったということで、その蓄積と言葉を交わすようにして見ているということなのかもしれない。何しろこの家の中でも二階は一階ほどには一日のうちの長い時間を人がいたようなところではなくて、伯父や伯母が二階を普通に生活空間にしたことはなかったし、従姉兄たちにしてもここから私みたいに毎日外を見るなんてことはしていなかったはずだから、私が言葉を交わしている視線はかつてここに実際に住んでいた人たちの視線ではないのだが、こうして私に見えている外の眺めはこの家の二階のここにある眺めであって、それは動かしようがない。
 人が空間の中に生きるかぎり、空間と何らかの折り合いのつけ方をしているわけで、「私」という特定の主語がここからの眺めを見ているのではなくて、私でなくても誰でもいい誰かがここからの眺めを見るという、そういう動作の主語の位置に暫定的にいるのが今は私なのだという風に感じられることが、空間との折り合いのつけ方のひとつなのかもしれなくて、それなら自分の中に蓄積された時間や行為という考えは少し単純すぎると思った。
 外の空き地の向こうに立ってこの部屋を見ていたときに、そうしている自分が部屋の中にいる自分から見られていると感じたのもそのバリエーションで、つまりはあのとき私は部屋の中にいる自分に見られていたのではなくてこの部屋そのものから見られていたということなのではないかというようなことを、ゆかりと綾子の二人がカラスの話をしているときに考えはじめていたのだが、込み入っていたし、浮かんできた考えも断片ばかりだったので、こういう形にまである程度整理がついたのは、三人が階下に降りてからだった。p201-202


ちなみにヴィスコンティの映画「Gruppo di famiglia in un interno」の英題が「Conversaition Piece」である。