『散歩のあいまにこんなことを考えていた』


散歩のあいまにこんなことを考えていた

散歩のあいまにこんなことを考えていた

 わたしはあまり高尚なことは考えない人間なので、人生の幸せというものは窮まるところ、朝食が旨いといったようなことに尽きるのではないかと思うことがある。実際、一日の始まりかたには二種類ある。起きたとたんに今日は朝飯を何にしようかといううきうきした期待が頭をよぎる朝と、胃痛だか心労だかで何を口にする気にもなれない朝と。前者のような目覚めが朝ごと淡々と続いてゆくのが何よりだが、それが実現できたらもうそれだけで「人生の達人」かもしれない。この頃深酒をしなくなったのは、翌日の朝食を台無しにしたくないという気持がどこかで働いているのだろうか。(「朝食」)p73-74


わたし自身は「トーストにコーヒー」に牛乳である。
牛乳は子供の頃には苦手で飲めなかった分を、いま飲んでいるのである。

情報化時代なんていうけれど、人間が生きてゆくうえで真に必要な情報なんてそんなにたくさんあるはずがない。思うに、情報メディアが存在するからこそわたしたちはあれこれどうでもよいゴミみたいな情報をかき集めたくなるのであり、決してその逆ではないのである。世の中に起きているあれやこれやの出来事なんて、別に知らなくてもいいことばかりである。本や雑誌を読まなくなるとさぞかし退屈して暇を持て余すだろうと危惧する人がいるかもしれないが、なに、わたしだったらどこか見晴らしのいい場所に行って美しい夕焼けを眺めてうっとりしている方がいいなあ。恋人といちゃいちゃするのもいいし、凧揚げしたっていいし、ちょっと歌を口ずさむなんてのもいい。「きっちり」とは無縁の世界の方が本当はずっとずっと豊かなのである。「きっちり」から「うっとり」へ。これをわたしは自分の後半生のテーマとしたいと思う。(「それはそれでいいんじゃないか」)p235-236


ウソつき!といいたくなるが、「うっとり」とか気持ちの良さは、うん、手放したくないな。

 ユニヴァーシティはユニヴァーサルと語源を同じくしており、学問の普遍性の概念を前提としている。だが、自然科学はともかく人文社会系の学問において普遍的な「知」などというのはもはや無力なファンタスム以外の何ものでもない。今日、「知」は、局地的・局部的な断片群の、たとえば使い捨てカメラのように、ある具体的な場面で、ある具体的な問題を解決するために機能しさえすればよい。そして、機能を終えた「知」の断片はそのとたんに磨り減って、たちまち歴史に組み込まれてゆく。
 大学の教養課程で、或る学問領域の「概論」だの「概説」だのを教えるのは学者の自己満足以外には何の意味も持たなくなってしまった時代が、とっくのとうに到来しているのである。「教養」とは、種々様々な事柄をめぐって浅く広い知識を満遍なく身につけることではない。大人になりかけている若者に対して施すべき「教養教育」とは今、「知」の断片が飛び交い、結合したりその結合がほどけたり、また思いがけない新たな結合によって別種の機能を始めたりしているこのネットワークへ招き入れ、その無方向的な機能ぶりを体感するための手ほどきをしてやることだ。彼らが必要としているのは、綜合も全体化もされえないこうした「知」の交通空間への参入のためのイニシエーションなのである。(「大学」から「学校」へ)p285-286