『青の奇蹟』


青の奇蹟

青の奇蹟

 「人がよく考えられるのは、他人の思考についてだけだ」。これはブローデルが引用しているアランの箴言であり、それを含むブローデルヴェネツィア論の一節を井上究一郎が『幾夜寝覚』の中に書き写しているものから、ここにさらに再々引用してみたものだ。しかしそんなふうに幾重もの引用の戯れの中に置かれることで、この箴言が主張している真理はいよいよくっきりと際立ってくるようではないか。ブローデルにとってのアラン、井上究一郎にとってのブローデル、フランスの歴史家や日本の仏文学者にとってのヴェネツィア、そしてもちろんわたし自身にとっての井上究一郎、それらはすべて他者にほかならないが、言うまでもなくわたしたちがよりよく考えられるのは、自分の思考についてではなく他人の思考についてなのである。(「他人の思考−−井上究一郎」)p267

 パリからローマへ、さらにミラノへという積極的な移動に明け暮れする前半生を送った須賀敦子は、老いに近づいてから書き出したあれら美しい「メモワール」の連作において、積極的な能動性とは無縁の、受動的な滞留の姿勢をかたくなに守っているように見える。思い出せないことは思い出せないこととして、欠落は欠落としてそれなりにゆったりと慈しみ、記憶の現前と不在のはざまでたゆたいつづけようとするこのおおらかな受容の姿勢が、彼女の文章に或る微妙な、しかし紛れようもなく個性的な官能の表情をまとわせる。そこでは須賀敦子は待ち受ける人であり、その待機に応えて訪れたものにも、いくら待ち受けていても決して訪れることのなかったものにも、等分の慈しみのまなざしをそそいでいるようだ。(「受動態に置かれた官能−−須賀敦子」)p255-256

 「なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部の部分にふれることには危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった」。身体的な「チューニング・イン」を通じて、少女の一分間一二○という速脈が中井氏にも感染し、医師の鼓動も一分間一二○に達して身の危険さえ覚えるのだが、彼はそのままじっと耐えつづける。このあたりの数ページほどの緊張した美しい叙述を丸ごと引用できないのが残念だが、こうした箇所を読んでいるとまるでわれわれ自身の脈拍も一分間一二○まで高まるような思いに駆られる。中井久夫のエッセーを読むのは、いたるところで脈拍が一二○まで高まるような体験そのもののことだと言ってもよい。(「中井久夫−−その人、その文」)p236-237

 音のリトルネロがあるように、色の、形の、匂いのリトルネロがあって、しばしばそれらは渾然一体となってもいる。ドゥルーズ=ガタリは「共感覚」と呼ばれる特殊な心理現象の重要性に注目している。或る制度に対する反応として、その本来の感覚以外の感覚が同時に呼び覚まされる現象が「共感覚」であり、眼を瞑って音楽を聴いているときに瞼の裏に色が見えるとか、口腔や鼻孔に味や匂いがありありと感覚されるといった体験がそれに当たる。クローデルがその美術論に『眼は聴く』というタイトルを冠したのも、カンディンスキーが「黄色い響き」について語ったのも、「共感覚」的な感性の働きを暗示しているわけだ。たとえば、貞享元年の冬に熱田で詠まれたと言われるあの良く知られた芭蕉の句−−


  海くれて鴨のこゑほのかに白し


 などは、「共感覚」に基づくリトルネロのすばらしい一例と言うべきものではないか。(「俳諧というリトルネロ」)p45-46