『不穏の書、断章』


不穏の書、断章

不穏の書、断章

なにも読まず、なにも考えず、眠りもしない。
自分のなかを、河床を流れる川のように人生が駆けてゆくのを感じる。
彼方には、外には、大いなる沈黙がある。まるで眠れる神のように。p44

 人生が自然な仕方で与えてくれるもの以上のものを求めず、本能に従う猫にならって、陽が昇れば陽を求め、陽が隠れたらどこかにぬくもりを求める者は倖せだ。想像力のために自分の個性を諦め、他の人びとの人生の光景を眺めるのを楽しみ、あらゆる印象の代わりに外的な表象を生きる者は倖せだ。すべてを諦め、それゆえ、なにも失わず、なにも決めないでいられる者もまた倖せだ。百姓、小説の読者、真の苦行者。この三者は幸福を知っている。彼らはみな自分という人間を放棄したからだ。……私は魂をもちたくないし、魂を放棄したくもない。私は欲しくないものを欲し、もっていないものを放棄する。私は無であることも、すべてであることもできない。私は、自分が所有していないものと、自分の欲していないものとのあいだに架けられた橋なのだ。p189-190

自分自身を知ること、それは誤つことだ。「汝自身を知れ」と命じた託宣は、ヘラクレスの偉業よりも困難な課題を、スフィンクスの謎よりも晦渋な謎を提起している。「意識的に汝自身を知るな」、これこそが行くべき道であろう。そして、意識的に自分自身を知らないことは、能動的にアイロニーを使うことに他ならない。自分自身を知らないという状態を辛抱強く、かつ表出的に分析すること、人間の意識の無意識を意識的に書きとめること、自律している影たちの形而上学を構築すること、幻滅の薄暮についての詩を書くこと。これらのこと以上に偉大で、また偉大な人間に相応しいことを私は知らない。p198