『生と権力の哲学』


生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

 「抑圧」の図式を利用する議論においては、「抑圧」されている当のものが「隠されている」ことがポイントになる。「隠されている」が故に、それを語るものは、一気に、ほとんど何の論証もなく、「真理」の保持者になることが可能になる。「隠されている」から、それをあえて露呈させる者は、高らかな革命の声を上げることができる。実際には、そこで「隠されている」ものなど何も実在しなくてもよい。性というブラックボックスのなかには、何も入っていないのかもしれない。実際に「禁止」の働き方を考えるならば、そこで「禁止」されている内容など、実際にどうでもよいものであることも多い。問題は、禁止に背くという姿勢そのものが、自らが「正義」であることを保証することに、無前提的に繋がっていくことにある。
 それは、まさに革命のロマンティシズムにほかならない。p29

 狂気に繋がる生は、もはやそのエネルギーが危険なものとして周辺へ「排除」されたり、訳のわからないものとして闇に葬られたりすることによって不自由なのではない。生はそれ自身が、「解放」という名目によって、慈悲と人間味に溢れた、公正な空間のなかにはっきりと配備されるがゆえに、決定的に「不自由」になるのである。以降、異常性を社会のなかで客観化し、それらの原因を探り、そこでも有責性を推し量り、彼らの危険を測定し、彼ら自身によって、そして社会によって全般的な監視網を張り巡らせる体制ができあがる。異常者の徹底的な対象化としての包摂が、社会の構成の基本力学になる。p90

 「抵抗」とは「人間」によって行われるものではない。「人間」の視線に依拠して何かを述べたとしても、それは「人間」であることを支える〈生権力〉に絡めとられるだけである。そうではなく、われわれ自らが「人間」の「外」の「力」である可能性を秘めていることを、徹底的に見いださなければならない。端的に「人間」の「外」にあるものが「生命」である。それはわれわれにとって異様な面持ちにおいて現れるかもしれない。そこでは、物質としての生命そのものが、「人間」という枠組みの「外」で、多型的な可能性を生みだすのである。情報と生命のテクノロジーは、われわれにとって、こうした「生命」の力をとりだす契機でありうる。生権力的なものに「抵抗」することは、こうした、「非−人間」としての自己を見いだすことにおいて、積極的に描かれるべきではないのか。p156-157

 「恥ずかしさ」とは何か。アガンベンは、ここでもレヴィナスの発言を引用する(「責任」の「主体」を積極的に提示する以前の、「イリア」をテーマとした初期レヴィナスが主題になる)。「恥ずかしさ」とは、自分が自分自身であることから逃れられないという事態のことである。それは「自己の自己への現前」から別の場所には逃れられないという意識である。この場合、自己が何ものであるかは問題ではない。自分がそれである自分というのは、いっさいが無内容な「非−場所」のようなものであるのだから。
 そこで「恥ずかしい」のは、「剥き出し」の自分が、他人に見られるからではない。何かの「恥ずかしい」内容をもつからでもない。「剥き出しの生」は、自己自身に対し、そこから逃れられない場面を形成するがゆえに、「恥ずかしい」のである。自己ならざるものが自己であることに直面することが「恥ずかしい」のである。p179