『ドゥルーズ』


 ドゥルーズの述べる個体とは、あくまでもシステムの個体である。それが特異であるのは、個体の存在が、それぞれ偏った仕方で、システムのあることを支えるからである。〈私〉のかけがえのなさなど、流れていくシステムへとすっかり溶け込ませてしまえばよい。〈私〉の中心性を想定する議論からは、潜在的な生成の力を引き立てる倫理は描けない。本来的な〈私〉を探し、ありうべき〈私〉をとりもどすという設定は、それ自身転倒した発想でしかありえない。
(中略)
 共同体の倫理、間主観性の倫理、他者(を歓待することの)倫理、死に向かう倫理……これらは確かに、〈私〉ではないものの倫理を示そうとする。そこでは〈私〉という中心性や固有性は排除されている。だが、それらはいずれも、ドゥルーズから見いだされる個体の倫理とは、鋭い対比をなすものでしかない。〈私〉に依拠しないドゥルーズの倫理は、これらの倫理の描き方と混同されるべきではない。なぜならば、以上にあげたさまざまな例は、〈私〉とは別のかたちで、しかしある種の中心性を復活させるものでしかないからだ。p95-96

 なぜならば、システムの絶対性や決定性を述べる俗流システム論も、システムに回収されない個の価値をきわだたせる発想も、ともに同一性の思考に基づいてしまうからだ。前者の議論は、システムそのものが、未決定的な生成の現場であることを見逃している。後者の着想は、生成の流れの中からとりだされるひとつの領域が、あらかじめ同一性をもった中心でありうると捉える点で誤っている。生成の流れを無視して、はじめから独自である個体はない。差異の思考は、これらとはまったく別の地点から開始されなければならないのである。
 ドゥルーズの論じる個体とは、それぞれが差異を表現することにおいて、システムの個体である。それは卵のシステムの未決定性を受けとりながら、未決定的な流れの表現であることによって独自である価値をもつ、そのような個なのである。p76-77

特異であることを、まずは肯定しなければならない。特異であるとは〈私〉やひとつひとつの葉が、つねに唯一無比の存在であることを意味している。しかしひとつひとつの存在は、中心ではない唯一無比である。それはひとつひとつが普遍(理念)に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであるから特異な唯一無比である。
 正しい問いの解き方はない。本当の〈私〉も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。〈私〉であることそのものが、きまりきった分類からいつも逸れていくからだ。明確な分類を作成し、個体をそこに押し込めてしまうならば(=つまり個体を分化の水準で描ききるならば)、個体はそのあり方において、そうした分類をいつも溢れかえっていく反乱そのものである。ヒエラルキーを描き出し、そこに定位しようとするならば、個体はいつもそれを崩していき、自らの姿をも組み換えていく。個体とは、予見不可能な生成として、ハイブリッド(それ自身が異他的)であることの肯定そのものであるからだ。
 個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にはそれは生きつづけることの過酷さをあらわにするものでもあるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも、他者による正当化も、正義による開きなおりもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。p106-107