『洞窟へ』


洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー

洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー

 洞窟とは身体である。環境との相互行為としての運動が、身体と環境を結びつけ、分節し、物質的な想像力を取り込みながら、物質的境界を超えてゆく運動となって、次の運動へと連鎖してゆく。オーリニャック期の人間は、洞窟のなかでその肉体の限界を超えて時間的に空間的に拡張しながら、概念的空間そのものとなり、変形と反復のなかから、壮大な記号体系をつくりだしたのだ。この「運動」と認知的流動性は、根本においてひとつのものである。死すべき存在でありながら、その限界を超えて「運動」を継続してゆくことができるのは、彼や彼女が生み出した概念空間が、それを受け取る者のなかに新たな認知的流動を生起させるからであり、その連鎖はわたしたちが「伝達」という平板な言葉でしか知らない、実は複雑で予想のつかない営みのことなのだ。p203-204

 だが何かを「見る」というはたらきは、常に能動的なものだろうか。ちょっと考えてみれば、必ずしもそうではないことが分かる。わたしたちは必ずしも、環境へ働きかけることを通してのみ、見ているわけではない。イメージは、それ以外の様態をもって現れることをわたしたちは経験を通して知っている。わたしたちは夢や幻覚といったさまざまなイメージも「見る」が、いったいどのようにして見ているのだろうか。そこに現れる線分は、わたしたち人間にとってどのようにして残されるのだろうか。線分や点の集合は、いったいどのようにしてわたしたちのなかに、ひとつの経験として、残されるのだろうか。p213-214

日常生活においてサン族の男が、スプリングボックになってしまうことはない。それでは狩りができないであろう。シャーマンがスプリングボック=人間になるのは、あくまでトランスを通してである。だがカネッティが見抜いているように、両者は「変身」という点で連続しており、前者は後者の初期段階なのである。だからこそ「身体の内側にある文字が語り、動き、身体を動かす」ことが重要なのだ。おそらく内在光学も、この「内側から語り、動き、身体を動かす」何かと、根本においてひとつのものであろう。これらの現象が、どれほど異様に見えようとも、それは「来るべきものを知る」ことが生きるために不可欠だという意味で、生の一部である。彼らの変身は、感じるものと感じられるものが分断不能の状態に置かれているという意味で、ひとつのテオーリアである。アフリカのテオーリアは、神話時代を超えて、悠久の時間からやってくるものなのだ。内部からの光、岩の内側からこつこつ叩く音。失われたものはあまりに大きく、変身の時はあまりに遠く過ぎ去っているように見える。絆は断たれているように思える。
 だがしかし、歴史時代に先立つ悠久の時間のなかで人類が培ってきた「変身」の能力が、いっぽうでは神話のなかで洗練され、他方では神と人間とのあいだに羞恥と尊敬にもとづくアイドースの位相を出現せしめたのが、ギリシアの宗教だという見方もできるのではないか。ギリシア神話における変身のモチーフは、ここで詳らかにする必要はないであろう。いっぽうアイドースを、高度な変身の様態として考えてみる価値はある。そう考えたとき、わたしたちは旧石器時代から歴史時代へと連続する、生の躍動に触れることができるはずであり、神話研究と先史芸術を接続する、もうひとつの道を拓くことも可能になる。p257-258