『エドワード・サイード OUT OF PLACE』

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エドワード・サイード OUT OF PLACE」(佐藤真)@京都造形芸術大学
映画を見ながら、ソロ、ということについて考えていた。
昔、ロバート・ボーン演じる秘密諜報員にナポレオン・ソロというのがいたが、彼にはイリア・クリアキン(デイヴィド・マッカラム)という相棒が、いつもそばにいたのだった。
イードにとってバレンボイムがそうかというと、どうもそうではなさそうで、ファンも後継者もきっと沢山いるのだろうけれど、なんだか本当にソロイストだったんだな、という気がした。
別荘のあるレバノンに葬られたかった彼の父ウィリアムは、しかし地元の人たちから墓所にする土地を分けてもらえなかったという。
エドワードは、妻マリアムの故郷でもあるレバノンのブルンマーナでオリーヴの木の傍らにひっそりと眠る。
そして息子ワディーは、父親が苦しんだ罪悪感について、今も理解できないでいる。


マリアムが、「楽観的でいる」という夫の言葉をくり返し紹介していたのが、印象的だった。
2001年3月、ロンドン大学での講演に現れたサイードが、すでに闘病が長期にわたっていたにもかかわらず、やつれも見せず、むしろしっかりとした声で、しかし、未来は真っ暗だ、と語っていたのを思い出す。
講演後の質疑応答のときだったか、教育にしか望みはない、とも。

‘Now it does not seem important or even desirable to be “right” and in place (right at home, for instance). Better to wander out of place, not to own a house, and not ever to feel too much at home anywhere, especially in a city like New York, where I shall be until I die.’ Edward W. Said, Out of Place


イードは、結局のところ西欧の知識人であった。
(この言葉で、わたしが言いたかったのは、住む場所やする仕事を、選ぶことのできるわたしたちだけれども、それでも、どうしても離れられない、それぞれの持ち場というものがある、ということだった。)


二民族一国家案。
しかし、敷居どころか、土地そのものに高いフェンスが築かれていく。
それに背をもたせかけている少年にマイクが向けられる。
美しいだろ、と声をかけてきた兵士に向かって、あんたの顔と同じで、反吐が出るよ、と応えてやったのだという。
厚い壁を通り抜ける力になりうるこの「健全さ」は、「食べること」とともに、画面のなかに見ることのできた希望のひとつ。


そして「音楽」?
合奏シーンがないわけではない。
しかしこの点、映画は禁欲していて、安易にサイードバレンボイムの「夢」を絵にしてはいない。


バレンボイムのピアノソロの画面から、ピアノの音だけを残し、パレスチナ男性が難民キャンプ地の狭い路地を歩いていくシーンを重ね、さらにオリーヴの木とともにそぼ濡れるサイードの墓石の映像をかぶせて、拾われている幽かな雨音とともに映画は終わる。