『敷居学』


敷居学―ベンヤミンの神話のパサージュ

敷居学―ベンヤミンの神話のパサージュ


「パサージュ論」を中心に、自伝的なエッセイにも目を配りながら、ベンヤミンの「神話思想」を読み解く試み。
ベンヤミンが「パサージュの神話」にこだわったのは、彼の思想そのものが「神話のパサージュ」だったからだ、とする著者メニングハウスは、言語、美、自由、歴史との関係を問いつつ、場所としてのパサージュ(街路)だけでなく行為としてのパサージュ(移行)を吟味していく。
すなわち、ベンヤミンの都市風景の観相学を、あるいは文芸解釈の数々を、変奏された「敷居学」として読んでいくのである。


「神話とメルヒェンを分ける敷居」を、「カフカ作品のもう一つ先の敷居」を、「教室の敷居」を、「神話とエロスの敷居」を、「市区を分ける敷居に加えてさらに都市生活と住居を分ける敷居」を、「死して成れという二つの命令の間の敷居」を、「最後の審判という敷居」を、横断すること、通過すること。

ベンヤミンにとってはいかなる時間、いかなる空間もすべて可能的には敷居であり、そこからメシアの王国に至るために必要とされるのは、たとえば目覚めという敷居において眠りと覚醒が、寺院の敷居において俗世と聖域が密接に境を接していることからもわかるように、たった一歩−−もちろん決定的な一歩なのだが−−だけなのだと。……。
 そしてこれはさらに、ベンヤミンが最終的には言語理論に基礎づけた媒質という観念、媒介する狭間一般の観念とも一致している。その要点とはすなわち、媒質は前提とされる両極の間を道具的に媒介する空間ではなく−−たとえば言語抜きで思考された〈内容〉を二人の話者の間で媒介するように−−むしろ媒質は一見するとそれが単に〈媒介している〉ように見えるものをはじめて産出するものなのだ、ということである。p93-94

自由はそれゆえベンヤミンにとって、神話や法によって、あるいはそのなかに存在するものではなく、神話や法に対する闘争のなかに存在するものなのである。……、悲劇の主人公はベンヤミンにとって敷居の姿、すなわち「古い」秩序の「最後の」姿であると同時に「新しい」秩序の「最初の」姿なのである。彼は新しい時代に転換する、変革する敷居に立っている。そして彼がこの敷居状況を呼び寄せるので、その限りにおいて神話の犠牲としての彼のなかに同時に超神話的な自由が顕現するのだ。敷居が作りだすのは、彼の死という側面から見れば、彼の生命である。そしてそのため彼は他者の宿命を自分自身の事柄にしなければならない。「何世代にも渡って引き継がれてきた呪いは、ギリシア悲劇文学では英雄的人物が自ら見つけ出した内面的な財産となる。こうして呪いは消え去るのである」。p131-132

永劫回帰は、幸福が持つ二つの矛盾する原理、すなわち永劫という原理と、「もう一度」という原理を結びつける試みである。永劫回帰の観念は時代の悲惨から幸福という思弁的な観念(あるいは幻像)を巧妙に紡ぎ出す」。
 この二重性においてはじめて神話的な時間の理論も−−神話の空間、言語、そして美の理論と並んで−−ベンヤミンの「敷居学」の確証的要素となる。敷居について、移行の、通過儀礼の場所と時間について書くとき、ベンヤミンは自分が二重の意味で通過する者となる。彼は神話理論の基本的な諸カテゴリーを通過することによって「夢の眠り」と「覚醒」という十九世紀の幻像(ファンタスマゴリー)の境界領域を測量するのである。そしてこうした神話の諸カテゴリーによって規定されるのは、『パサージュ論』がはじめてではなく、初期の歴史哲学や言語哲学、およびそれらが交差する文学論も同じく規定されている以上、ベンヤミンの著作全体がさまざまなパサージュの通過(パサージュ)なのである。p178-179


時間論のくだりは未消化。
「パサージュ論」そのものがよくわかっていないのだから、まあ当たり前といえば当たり前なのだが。