『ゲーテさんこんばんは』
- 作者: 池内紀
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/11/18
- メディア: 文庫
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ゲーテの評伝ふうエッセイ。
人物を語って作品へと導き、作品を読み解いてまたその人物を想う。
「若きウェルテルの悩み」「イタリア紀行」「詩と真実」などなど。
たとえば、「ファウスト」第二部のはじめにある庭師の出てくる合唱は、「バラは詩にして、リンゴはかじれ!」でしめくくられる。
これは、作者自身の流儀でもあったようだ。
恋から逃げる男。
実際、ゲーテはいつも逃げた。女性とのかかわりが切迫してきて、決断へと踏みきる手前で逃走した。ライプツィヒの学生のときに知り合ったケートヒェンからも、ゼーゼンハイム牧師館の娘フリーデリケからも、ことが現実的なけはいを見せだすと逃げ出した。リリーとの婚約を、これといった理由もなしに解消した。いや、理由がなかったわけではない。婚約に引きつづくはずの事柄という理由があった。p46
視覚人間。
彼はよく見ただけでなく、つねにただ静止したものを見た。人体に関するゲーテの関心は解剖学だった。静止のきわまった分野だろう。植物学においては、形態学だった。「モルフォロギー」とよばれ、植物の定型をとりあげる。彼が好んで口にしたウアフォルム(原形)にしても、植物が示す展開や成長段階に、一つの固定した原理をわりあてる試みにほかならない。
ゲーテは鉱物学にも精出したが、その基礎学にあたる化学には、はるかに関心がうすかった。つまるところ化学が要素や成分や物質の変化を扱い、つまりは動的な学問だったからではあるまいか。p87
もちろん、ゲーテはそう簡単につかめる人物ではない。
たとえば彼が関心を向けていた形態の生成のように。
ゲーテは「征服」の名のもとに、植物学者リンネがしたような分類と学名の命名を批判した。それは植物や動物の存在を、人間のための観点からのみ整理し、容認したものであって、つまるところは支配への意志を如実に示している。たえず人間が優位に立っており、人間的な有用さから測定して数字と量とを一覧表にする。そのとき対象は消え失せて、すべては抽象的な関係にすぎなくなるのではなかろうか。ゲーテは述べている。
「数と量は、それ自体が形態を無に化して、いきいきとした観察の精神を駆逐する」
形態学はそうではない。これは生きとし生けるものの生成の過程を観察するものであって、その微妙な変化を目でもってたしかめ、生成させる力に近づこうとするもの。……
形態の生成はつねにひそやかに、またゆるやかに進むものであって、その微妙な変化のなかにこそ、生まれ出るものの意味がある。p140-141
「力による人間社会の変革に対し、自然のひそかな生成を讃えるノートを出しつづけた」ゲーテ。
そして、池内紀は「好んで雲を描いた」ゲーテ、軽気球を見せ物としてではなく、乗り物と見なしていたゲーテ、「色彩論」に没頭するゲーテについてふれている。
ゲーテの『色彩論』は人間の感覚、とりわけ目玉に捧げられた長大な讃歌というものだ。色ひとつとってみても、それがいかに精妙な反応を示すものか。その「特殊感覚エネルギー」を実証するために、自分の目玉を素材にして、三十年に及び一連の「化学実験」をした。ゲーテの色の考察は「教育学的部門」などとしかつめらしく語られているが、感覚の不思議さ、その多層性をあざやかにとらえている。ゲーテはニュートンのように色を不変のものとは見なかった。そこに取りあげてあるのは、つねに初々しい感覚機能であったからだ。p245-246
ゲーテは、彼の「色彩論」が世にいれられなかったことについて問われて、こう答えたそうである。
「読んで学ぶだけでなく、実行を求めている本だから」
たしかに、けっして眼鏡をかけようとせず、「人工の目玉を信用しなかった」肉眼の人にふさわしい言葉である。
つまるところ人は何をめざすのか?
世を知って軽蔑しないでいること p253