『宇宙を哲学する』

前著『パースの宇宙論』への入門編、基礎編といったあたりか。近代の自然哲学を現代科学とは完全に異質なものとしてあっさり切断してしまうのではなく、その離反と近接、連続と不連続を同時に視野におさめながら、しかし妥当的側面と容認しがたい側面との見極めは厳密に行うこと。近代科学の知識を基礎とし、その掘り下げを目論んだ近代哲学の問題意識を復習しつつ、そうした哲学的反省に含まれる制約を精査することによって、新しい世界像の青写真を描いていく、すなわち現代の自然哲学的探究の方向を見定めていくこと。後半では、前半の終わりに指摘されたカントのアンチノミーの限界をさらに詳しく吟味し、ポスト・カントの一つのモデルとして、形式科学と自然哲学の両分野において革新的な成果をもたらしたとされるパースの理論・宇宙論を概観する。引き込まれるように読んだ弾みで、『偶然の宇宙』まで読み始めてしまう。
前半にあたる「講義の七日間 自然哲学のゆくえ」は『新・哲学講義5 コスモロジーの闘争』に収録されたものを訂正したもので、補講3日分の後半「補講 ビッグバンの方へ」(分量的には全体の4割くらいだろうか)が新しく書き下ろされたとのこと。そのつなぎのあたりをメモとして以下に拾っておく。

すなわち、われわれの経験が単なる感覚的知覚ではなく、理論的知識との総合的な「働き」であり、思考の形式の全面的な「投げ入れ」であるとすれば、そうした働きのなかで使われる根本的な概念どうしの整理ということと並んで、思考の「形式」そのものの論理的な矛盾の可能性についての、絶え間のない厳しい点検ということが、どこまでいっても別に要求されるということになります。いわば、感覚的知覚と知性的思考という伝統的な二元性をずらして、「理論に媒介された経験」と形式的論理との二元性という新たな観点から、われわれの知識の可能性を批判と構築の両面から考察する道をとらざるをえないということです。
 私の考えでは、ここに、「無知」からの離脱を目指したケプラーデカルトの出発点と、近代科学を土台として、そこからの脱皮と飛躍とを目指すこれからの私たちの立場の相違というものがあると思われます。そして、今日の偉大な哲学的成果の多くが、ラッセルやホワイトヘッド、パースやゲーデル、あるいはタルスキといった人々に見られる、記号的体系の創出や論理的パラドックスの発見という、もっとも強靱な精神のはたらきと結びつけられているところに、近代哲学の意義を十分に踏まえて追求されている、現代哲学の進歩の実態というものを確かめることができると思われます。p86-87


宇宙を哲学する (双書 哲学塾)

宇宙を哲学する (双書 哲学塾)

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