『ヤンヤン 夏の想い出』『私のように美しい娘』

「私たちは似ている」と大田(映画の表記では一成尾形)がNJ(ウー・ニェンツェン 呉南峻)に言うのだが、嘘のつけない人間の苦しさや美しさをこんなふうにも描けるのだな。木漏れ日。家具などの部屋の調度。風船に水を入れることの困難さ。そしてたとえば若い男女の接触。切り返しにせず、固定されたカメラは引いたまま、いつまで、とつい思ってしまうほど長めに回され、そんな撮り方で人と人との関係における、近づきながらもまだまだ遠い距離を描いてみせたり。思わず唸ったのは「上を向いて歩こう」から「月光」への移行の絶妙さ。じつはこの大田のピアノ演奏へのつなぎがまた上手いのである。そして眠気に襲われるNJ、深夜の誰もいない会社に戻った彼が昔の恋人シェリーに電話をかけるシーンへと続く場面もすばらしい。セリフで面白いと思ったのは、互いにとっての外国語(ここでは英語)でコミュニケイションするときの、言葉がややもすると格言めいた物言いになりがちな感じを、よく伝えていたところ*1。大田は言う。私たちはなぜ「はじめて」を恐れるのだろう。同じ日は一日とてない。朝がそうだ。毎朝、はじめての朝がやってくる。なのに、私たちはたいして怖がりもせずに布団から抜け出すではないか。なぜだろう、と。熱海の海、ホテルのエスカレータ(台北のエレベータではなく)。それから、NJがシェリーと再会後の再会をする東京が、まずは夜の、しかも雨の東京で、その夜の光を移動する列車の窓から映していたことも印象に深い。8歳の少年ヤンヤン(ジョナサン・チャン 張洋洋)の撮る後ろ姿の写真。やっと眠れるようになった高校生の姉ティンティン(ケリー・リー 李凱莉)が見た夢。結婚式から葬式まで。『一一』、英題『Yi Yi;A One and a Two』、2000年、台湾・日本、エドワード・ヤン(楊紱昌)監督作品。

こちらは欲望に嘘をつかないといういう意味で自分に「正直」な女性とそんな彼女を欲望する男たちを描いた映画。取材のために女性犯罪者の面会にきていた社会学者が逆に刑務所に入りその女性に面会されるはめになるというお話で、おバカな男たちと天晴れな女という典型なお話なのだが、とにかくテンポがあれよあれよ的に軽快で、じっくりな展開でしかも時間を感じさせない上の映画とは対照的な圧縮形式。『Une belle fille comme moi』、英題『Such a Gorgeous Kid Like Me』、1972年、仏、フランソワ・トリュフォー監督作品。

*1:外国語を使わせることで、その響きが匂やかになっている、というだけでなく、母語であれば口にするのを躊躇ってしまいそうな、ちょっとくさいセリフを、ちょうど大田の肩にとまっていたハトのように、その軽みがあってこそ可能になるような、羽ばたきへの変移を(現実と切り結びうる力を)潜在させた言葉として、現出することに成功している、ともいえるだろう。