仮定法と進行形


ある女の子はスカートが短いからこそ爽やかである、ということがありうる(彼女の性的な魅力がその爽やかさによって抑えられてしまう、といったことなく、である。たとえば紺野真琴のスカートがもう少しでも長かったら、あのジャンプの爽やかさがあっただろうか*1)。キスより耳元で囁くほうが官能的、な場合もあるだろう(相手が間宮千昭なら、あんなふうに囁かれたいと思う女の子もいるのではないか)。そして自らの性的欲望の存在に気づきながら、つまり(作り手による)焦らしや透かしをそれと知りつつ楽しみながら、同時に(作られたものに)爽やかさを感じて満足する人もいるのではないか*2

*1:それでも彼女の下着がチラとも見えないという不自然さにも、つまりは作り手が見せないという選択をしていることにも、多くの観客は気づいていることだろう。

*2:意図や方法とそれらがもたらした結果を同時に、しかし別のレベルで評価できるのは、その対象としているものが作り物だから、比較的容易になる態度だともいえる。たとえばある人物の「天然」についてなら、その天然をどう描くかは、作り手が予めできるかぎりの「計算」をしてそこに組み込むのが作り物である。そこでは作り物が「作られる」ための時間が、過程として生きられており、この時間の痕跡こそが、作り手の「手」と作り物の「物」との切り分けを可能にする。他方、生身の人間は、いわば作者でもあり作品でもある。そしてその作者である部分と作品である部分とを分別することは、すなわちその「どこまでが計算か」を計算することは、難しい。人間は、演出とその結果である演技との両方を、たいていはほとんどラグなしに、しかも自覚的ではありえない自らの天然、積み重ねた過去、先取りした未来の時間、そして他者たちの「手」といった諸々を交えつつ、渾然させた一体として生きざるをえない存在だからである。たとえば三四郎は、原口の描いた絵に対しては「森の女と云ふ題が悪い」と、とりあえずは口にできても、絵に描かれようとした「優美な露悪家」美禰子その人に対しては、ついに「測り切れない」ままなのである。