[book]『マリー・アントワネット』追記、『ヘーゲル読解入門』、『東京から考える』


[映画のあとの、三人のまとまらない会話]

K「フランス語、聞きたかったなぁ」
S「ちょっと遊園地っぽくなかった?」
T「結婚させられた少女が、なんとか母親になれて、自ら妻にもなって、やっと自分自身になることができたって感じにはなってたよね」
S「国とか家とかに縛られた悲劇のヒロインじゃなくて、ひとりのあたりまえの女性の部分を前に出したかったんだろうけど…」
K「ケーキは美味しそうだったよ〜」
S「なんていうか、見たくないものは映らない、どこにもゴミが落ちてないって感じ」
T「保護されてて安全、安心なんだ。そういえば、鶏小屋で産みたての卵を子供にさわらせる場面なんか、タマゴ、あらかじめ下働きの者に拭わせて、きれいにしてあるんだよね」
S「この映画を象徴してるかも」
T「テーマ・パーク的っていうのかな。まあ、映画ってメディア自体がそういうとこ、あるけどね。囲い込んで、見せたいものを見せて、感じたいものを感じてもらう。この映画、マリー・アントワネットの生涯を史実として知ってるっていうのが、前提なのかな」
S「でも、映さないものがあるからこそ人生の断面が鮮やかに浮かびあがるってよりは、あれよあれよの感じのほうが強かった」
T「彼女の肝が据わったところは、たしかに断頭台を見せないでもすむって感じはあったけど、ちょっと唐突な感じもあったね」
K「プチ・トリアノンだっけ? 田舎の自然、美しかったヨぅ。花も虫も草も、風とかも」
T「そうだね。うん、子どもを持つってやっぱり大きかったんだろうね」
K「とにかく一所懸命たのしもうとしてたよ。浮気もしっかり楽しんでたし」
T「よ、よろこびの肯定っていうのは、それはそれでいいんだろうね」
S「「工学」によって提供されたものでも? そのために何を犠牲にしてるかってことも含めて、考えてね」
T「そうか。でも人間工学と社会との関係が、ちょうどラングとパロール(あるいはディスクール)との関係というか、記号論的なものと意味論的なものとの関係になっているのなら、インファンティアにあたるものは何なんだろう、動物性っていってもちょっと大きすぎるし…」
S「ん?エレファント?」
T「あ、それは鉄コン筋、いや、映画とごっちゃにしちゃまずかったかな」

したがって、歴史の終末における人間の消滅は宇宙の破局ではない。すなわち、自然的世界は永遠に在るがままに存続する。したがって、これはまた生物的破局でもない。人間自然或いは所与の存在と調和した動物として生存し続ける。消滅するもの、これは本来の人間である、すなわち所与を否定する行動誤謬であり、或いはまた一般には対象対立した主観である。実際、人間的時間或いは歴史の終末、すなわち未来の人間或いは自由かつ歴史的な個体の決定的な無化とは、ただ単に用語の強い意味での行動の停止を意味するだけである。これが実際に意味するものは、−−血塗られた戦争と革命の消滅であり、さらには哲学の消滅である。なぜならば、人間はもはや自己自身を本質的には変化せしめず、人間が有する世界と自己との認識の基礎である(真なる)原理を変化させる理由もまたないからである。他の一切のものは際限なく保持される。芸術や愛や遊び等々……要するに人間幸福にするものはすべて保持される。(第七章「『精神現象学』第八章第三部(結論)の解釈」本文への原注、コジェーヴヘーゲル読解入門』p244-245、国文社、1987年)


東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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