『恥辱』(追記)

MSKが職場の図書館から借りてきたという「欲望という名の電車」を一緒に見たのは先週末。この映画はずいぶん久しぶりで、マーロン・ブランドの登場する幾つかのシーンを除くと、ラスト以外はほとんど覚えていなかったくらい。で、先日来図書館で借りていたクッツェーの「恥辱」を読み終えてから、この小説が、テネシー・ウィリアムズの脚本を原作とする映画と、その物語の枠組みを共有していることに気がつきました。
旧い秩序(文化、教養、価値)が崩壊し、その世界に棲めなくなった住人が、新世界で根を下ろそうとしている肉親を訪ね、そこでさらなる現実に直面し、自己の根底からの見直しを迫られる、というもの。場所も時代も違っているし、プロットももちろん異なっています。けれど人物設定、主役がなかなか現実を認めようとせず、自分を再教育しようとする者を頑なに拒む夢見がちな快楽主義者という意味では、「恥辱」の父と「欲望〜」の姉は、とてもよく似ています。脇役であるそれぞれの娘と妹についても、ふたりが子供を持つことになる点まで同じです。
ダーウィンニーチェ、シュペングラー、フロイトカフカ、そしてひょっとしてデリダ? いろんな顔が浮かんでくる小説でしたが、気になったのは「復讐」の扱いです。作者は主人公たちに復讐を禁じています。では、ひたすら被っているだけに見える暴力や彼らが陥る逆境は、彼らのこれまでの存在のあり方、振る舞い、つまりは「豊かさ」に対する、搾取され抑圧されてきた「貧しさ」の側からのしっぺ返し、として設定されているのでしょうか。そして主人公たち自身、そのことを了解しているのでしょうか。もしもそれらが神の与えた試練でも天罰でもなく、因果律から切り離された不条理でもないのだとすれば。