『小津安二郎文壇交遊録』


小津安二郎文壇交遊録 (中公新書)

小津安二郎文壇交遊録 (中公新書)

memo:以下、すべて孫引き

映画といふものは映画のために拵へたものが結局いちばん面白いね。どうも小説を映画にしたといふものは何だか靴を隔てて掻くやうな気がしてまどるつこしい。それから仮りに自分のもの−−「赤西蠣太」だけだけれど、あれを見て自分のものといふ気がしない。二度目に街で見て初めて面白かつた。初めの時は、自分のもののつもりで見たんでひどく戸惑ひしちやつた。まるで受ける感じが違ふ。二度目には伊丹君の作品として見て面白かつた。(「映画と文学」における志賀直哉の発言、『映画春秋』第六号、一九四七年四月十五日)p133

人間の容貌と云ふものは、たとへどんなに醜い顔でも、其れをぢつと見詰めて居ると、何となく其処に神秘な、崇厳な、或る永遠な美しさが潜んで居るやうに感ぜられるものである。予は活動写真の「大写し」の顔を眺める際に、特に其の感を深くする。平生気が付かないで見過ごして居た人間の容貌や肉体の各部分が、名状し難い魅力を以て、今更のやうに迫つて来るのを覚える。(谷崎潤一郎「活動写真の現在と将来」『新小説』一九一七年九月号)p212

 先生の小説の、とりわけ、会話の流麗は、ことごとく、映画のシナリオにも通じ、僕には、この上もないテキストなのです。
 先生の小説は、その材料と、それを料る包丁に、そのときどきの多少の相違はあれ、つけ味、もち味、だし味と、その割烹のいづれにも、昔からの暖簾の、名代のうまい喰ひもの屋の、豊かな味があります。
 芳醇な、灘の生一本。スコッチなら、キャラクターもあり、ボディもある、飛びきり無類の味だと思ひます。まことに、天下の美禄です。
 先日も、先生の処で御馳走になつた、レモンを垂らした的矢の牡蠣の、つるりと喉を通つて、ひんやりと、ゆつくり、胃の腑に落ちてゆくうまさを、これも、先生の小説の味だと思ひました。(『現代日本文学全集 第二十五巻 里見(弓享←一字で「とん」)・久米正雄集』月報における小津の里見評)p83-84