『生態学的視覚論』


生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る

生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る

 建築では、ニッチは彫像がぴったりおさまる場所であり、対象がフィットする場所(壁龕)である。生態学ではニッチは、動物にとって適切な、比喩的にいえばその動物がフィットする環境の特徴の一セットである。環境のアフォーダンスをめぐる重要な事実は、価値や意味がしばしば主観的で、現象的、精神的であると考えられているのとは異なり、アフォーダンスがある意味で客観的、現実的、物理的であるということである。けれども実際には、アフォーダンスは客観的特性でも主観的特性でもない。あるいはそう考えたければその両方であるかもしれない。アフォーダンスは、主観的-客観的の二分法の範囲を越えており、二分法の不適切さを我々に理解させる助けとなる。それは環境の事実であり、同様に行動の事実でもある。それは物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもないのである。アフォーダンスは、環境に対する、そして観察者に対する両方の道を指示している。p139

 環境がもっている可能性と動物が生命を維持する方法は、不可分に結びついている。環境は、動物がなしうることをその中に含んでいる。そして生態学におけるニッチの概念は、この事実を反映している。人間は、ある限度内で、環境のアフォーダンスを変えることができるが、それでもなお人間は自分が置かれている状況の産物である。
 刺激の中には対象の物理的特性に関して情報があるが、おそらく環境特性に関しても情報がある。我々が対象の意味を学習するに先だって対象の変数を区別しなければならないという考え方は問題がある。アフォーダンスは、観察者との関係で存在する特性である。アフォーダンスは、物理的なものでも現象的なものでもない。
 包囲光の中にアフォーダンスを特定する情報があるという仮定は、生態光学の中心である。一方の極では観察者の動機と要求に関係し、もう一方の極では世界の物質と面に関係する不変項の概念は、心理学に新しいアプローチを提供する。p156-157

 完全に信頼しうる自動的な現実吟味は知覚系のはたらきに含まれていると、私は主張する。それは知性的である必要はない。水晶体の調節作用が変化するにつれて、面は異なる鮮明さで見えるが、心像はそうではない。注視すると、面はいっそう明瞭になるが、心像はそうはならない。面を走査することはできるが、心像についてはそうできない。両眼が外界のある対象に輻輳すると、交叉性複視の感覚作用が消失し、両眼が開散すると、「二重像」が再び現れる。このことは、心の空間における心像については生じない。対象は11章で述べた最適化調節のレパートリー全体を用いて精査される。心像は−−残像、いわゆる直観像、夢の中の像、幻覚のいずれであれ−−精査されない。むろん、心像対象は想像上の精査を受けられるが、このやり方では、その対象についての新しくて見るべき特徴を発見することはない。それを視覚化するその人の能力を構成しているのは、知覚系がすでに抽出した対象の特徴そのものだからである。最も決定的な現実吟味とは、精査活動によって新しい特徴や細部を発見できるか否かである。新しい刺激作用を得ることができ、それによって新しい情報を抽出できるか。情報は無際限か。さらに多くのものが見られるか。想像上の実体についての想像上の精査では、このテストをパスできない。p272