『資本主義から市民主義へ』


資本主義から市民主義へ

資本主義から市民主義へ

岩井 うん、だけど、カントが言う、仮言命題にもとづく倫理は、真の意味での倫理ではない、定言命題として定式化される倫理のみが倫理であるという考え方とおもしろいほどに適切に関連してくるんですよ。なぜならば、定言命題とは自己循環論法なんですよ。カントの倫理論がおもしろく、そして深いのは、それが自己循環論法になっているということなんです。
(……)
 言ってみれば、仮言命題は社会主義的で、定言命題は徹底的に反社会主義的です。個人の行動を社会全体の利益の名において制約する仮言命題的な倫理の極致が、社会主義だからです。カントは、外から与えられたなんらかの目的から導かれる倫理というものを全否定する。それ自体が目的である行動規範こそ倫理であるというのは、倫理がまさに自己循環論法であるということです。p188-189

岩井 (……)
 これは、ハイエクのヒューム論から学んだことですが、本質的なことは、真理には、二つの種類が存在するということです。ひとつは、ユークリッド幾何学のように、与えられた公理から出発して一歩一歩、定理を構築していくことによってしか到達できない真理です。もうひとつは、クレタ島パラドックスの非決定性やゲーデル不完全性定理のように、自己循環論法によって真になってしまう真理。後者のタイプの真理にかんしては、人々がそれを見れば、それがそのまま真理だとわかる真理です。前者は、構築されなければならない真理で、後者は発見されなければならない真理といっても良い。そして、いったん後者のタイプの真理が発見されると、今度はその真理を、ひとつの公理として措定する新たな数学の体系が生まれる。その新たな体系を構築している途中で、いつかまた、ゲーデル不完全性定理のように、その体系には依存しないけれども、その命題自身、自分が真であることを示している新たな命題が発見されるかもしれない。もちろん、発見されない可能性もある。結局、純粋に構築的であると考えられていた数学までもが、進化論的に発展する科学であるということがわかったということです。
 (……)ふつう、自己循環論法というと、自己矛盾だとかアンチノミーだとか言って話を終わりにしちゃうんだけど、じつはそれこそが真実であると。それこそが貨幣である、それこそが言語である、それこそが権利である、ということなのです。p199-200

岩井 マルクスの価値形態論は、単純な価値形態から出発し、拡大された価値形態、一般化された価値形態、そして最後に金を貨幣とする貨幣形態に到達するというふうに、価値形態の線形、リニアな発展として論じられている。あれをそのまま信じれば歴史は意味をもたないことになる。なぜならば、歴史は価値形態論の論理段階をそのまま追認するにすぎない。歴史がなんの独自性ももたなくなってしまいます。マルクス主義の人たちの歴史認識はみんなそうでした。
−− そのことにかんしてパースの『連続性の哲学』が見事な論理を展開していて感心しました。因果関係はよく過去、現在、未来を説明するものだと思われているがそうではない。原因が必然的に結果をもたらすとすれば、結果が原因であると言っても同じことだ。機械論的力学から言えば因果性の命題は成立しなくなる。問題はそうではなく、偶然ということ、確率ということにあるのであって、これは「偶然とはわれわれの無知に起因するものである」などという俗説とはまったく無関係である。偶然とは不可逆性のことであって、ランダムもまたそこに成立する。機械論的な宇宙にあっては未来も過去もない。にもかかわらず未来も過去もあるのは、つまり時間があるのは、不可逆性があるということであって、それが偶然ということなんだというのです。それは論理の問題であって主観の問題ではない。宇宙が一回性としてあるということ自体が、世界が偶然性としてあるということと同じなんだということですね。
岩井 そうですね。しかも、そこで重要なことは、すでに何度も述べたことを繰り返すのですが、その不可逆性ということが、世の中には自己循環論法によってそれ自体で正しいことを証明できる真理があるということと密接に関係しているということです。p239-240