『スピノザ 共同性のポリティクス』


スピノザ共同性のポリティクス

スピノザ共同性のポリティクス


スピノザ 実践の哲学』のドゥルーズも指摘していたけれど、『エチカ』ではじめて出てきた「共通概念」という認識がとても重要で、それは『エチカ』が教えてくれる〈術〉である、つまりここが他者への扉だと。

もしスピノザ的な意味での超人というのが存在し得るとしたら、その人物は他者が力であるという事態−−一切は実体のとる様態なのだから−−を知っており、自らも他者もその力能の表現であるという点において共通の平面に属していることを認識している存在であろう。したがってスピノザの自由人とは、どのようにしたら自らの能動的な力の増大ができるか、喜びの情動の増大が可能かという課題を、諸々の力能の合成の局面において、すなわち共同性の平面において試みることができる人間である。その人は自己の能動的な力の誇示といった主観性の罠に陥らない。スピノザ的な能動的人間は、一切が力能とみなされたこの様態的世界において決して〈個人〉など存在しないこと、〈人間〉などという限定が諸力の錯綜した現実に対する非十全な表徴でしかないということを認識しているという点で人間を越えており、〈超人〉たり得るのである。p70


たとえばニーチェだけでなくアラン(『スピノザに倣いて』)にも、宗教や個人主義の影がまだまだ色濃く残っているけれど、スピノザの「共通概念」こそが、超越的な規範としての道徳ではない、内在的な規範としての倫理を、そのままに共同性へと開く鍵なのだ、と。

……私たちは、通常事物を孤立して考えてしまうようにできており、それが事物に内在する構造や関係の相互連関の認識を妨げている。その結果、主観の牢獄ともいうべき個人のアトム化がつくりだされ、私たちは自らの存在の社会的被拘束性を見失うのである。マルクスなら「ブルジョワ的な主観性の神話」とでも言ったであろうこうした状況を打破して、諸力の形作る社会関係の地平の一部として自らの場を認識していくこと。これが共通概念の広義の役割であろう。ものが相互に関係しあうための前提となる共通の側面を見出し、いわば物事を、超越的次元を持たない一つの内在的な共通平面上に生起する事態としてとらえること、そして具体的な身体や思考を、その形態や機能からでなく、触発し、触発される力の関係で考えることは、実際、決して容易ではない。しかしそれのみが、多数・多様体として与えられたある存在が、平面上のどの点において、ある時は、例えば外からのファシスト的な従属を強いる力の犠牲になっており、同時に同じ多数・多様体が今度は別の地点では勝ちをしめ、能動的な力に解放と、逃走の線を伸ばしてやっているか、といった身体を貫くミクロな力の分析を可能にする。p50