『スピノザに倣いて』


ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』をドゥルーズ入門書として薦めていたのは、檜垣立哉ではなくて、『ジル・ドゥルーズ』(ISBN:4791762282)の「訳者あとがき」の國分功一郎だった。
じつはこの本は、まだ読んでいない。
たぶんあとがきだけは読んでいて、それが記憶に残っていたのだろう。


今日もやはり、スピノザの周りを回る。


スピノザに倣いて

スピノザに倣いて

スピノザ〔の『エチカ』〕は、一方において、全体の連関を考え、全部分の統一を求めてこれを体系的に読むことができると同時に、他方では、全体の連関など考えずに、各部分それぞれのもつ速度にしたがって、引きこまれたり弛められたり、動きに駆られたり静止したり、掻きたてられたり鎮められたりしながら、これを情動的に読むことができるのである。(『スピノザ 実践の哲学』p249)


この本のアランは、上でドゥルーズのいう双方の「読み」を同時に試みているのかもしれない。
いずれにせよ、わたしにとっては、第三の「読み」が加わることになる。

 定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
 証明 自由の人すなわち理性の指図にのみ従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない。むしろ彼は善を欲する。言いかえれば彼は自己自身の利益を求める原則に基づいて、行動し、生活し、自己の有を維持しようと欲する。したがって彼は何についてよりも死について思惟することが最も少なく、彼の知恵は生についての省察である。Q・E・D・(『エチカ』ISBN:4003361555、畠中尚志訳、第四部p79)


これをアランはこんなふうに変奏する。

しかしながら、死について省察することは、「理性」にふさわしいことではない。われわれは明晰な観念をもつかぎり、死を考えないからである。死は魂の存在を否定することであり、魂のなかで十全な観念としてあたえられない。なぜなら、どのような存在も外的原因によらないかぎり、けっしてなくならないからである。したがって魂が行動するとき、魂は死を考えない。反対に、魂が死を考えるのは、何らかのしかたで自己自身の解体を表象するとき、すなわち魂の情念=受動においてである。また死を恐れるとき、否、死を考えただけで、必ず悲しみがあらわれる。このことだけからも、死にたいする恐れや死の思想は悪いものである。理性的な人間は死をあまり考えない。他のどんなことよりも少ない。彼が省察するのは生であって死ではない。p105-106


これはアランの最初の著作であり、アランはこの文章を35歳のとき(1901年)に書いた。
一度書いたものはけっして修正することのなかったアランだが、1949年に、序文と結語を付加することによって、はじめてその作品を書き改めている。
その結語にいう。

自己のうちからたえず神を悩ますパスカルを追い払うこと。p150