『スピノザの世界』


スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

ゆるしは一つの効果であって、意志でもって人を愛したりゆるしたりできるものではない。このことを理解しないと、われわれはゆるせないでいる自分自身をゆるせなくなり、悲しみは悪性化する。スピノザはこういう自己嫌悪を「後悔=悔い改め」と呼んで、徳と間違えてはいけないと注意している(第3部定理51の備考および第4部定理54)。
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 『エチカ』はその名のとおり「倫理学」なのに、なぜ「〜すべし」という定言命法がどこにもないのか、その秘密がわれわれにもわかってくる。定理はすべて事態の説明である。「べし」は入り込む余地がない。それに、事態が理解されれば、ことさら「ゆるすべきである」と言うまでもなくなっている。『エチカ』は人間の感情と行動を説明しながら、その説明そのものにゆるしの効果があることを実地に教える、そういう倫理書なのである。というわけで、「神あるいは自然」でもって事物や感情が説明できればできるほど、悲しみはそれだけ除去され人生は強く、愉しくなってくる。この喜びが「神への愛」なのだよとスピノザは言う(第5部定理15)。なんじ神を愛し隣人を愛せ。これは宗教の教えだが、スピノザはそれを命令形から解き放ち、理性の公然たる愉しみとしてよみがえらせるというようなことをしているのかもしれない。(p148-150)

われわれは石に視力が欠けているとは言わないくせに、どうして目の見えない人のときには「視力が欠けている」などと言うのだろうとスピノザは問うている(書簡21)。ありもしない「欠如」ばかりが目について、われわれは現に存在しているものへの尊敬が妨げられているのである。
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実際、神に関する認識がすべての信仰者で等しいわけではないことをだれが知らないであろう。また、なんぴとも命令されて生存したり存在したりできないと同様、命令されて賢くあることなどできないということをだれが知らないであろう。男も女も子供も、およそ人間は命令されて等しく従順であることはできるが、命令されて等しく賢くあるわけにはゆかないのである(『神学政治論』第13章)


だから、とスピノザは続ける、「神あるいは自然」を認識するよう万人を義務付ける命令など存在しない。もしそういう認識が若干の人々にアクセスできるなら、それは前にも言ったような意味で望外の「恩寵」なのだ。そして彼はこう付け加えてもよかっただろう。しかしそうでない大多数の人々にその「恩寵」が欠如しているわけではない−−石に視力が欠如しているわけではないように。p160-162