『イッツ・オンリー・トーク』


イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)

イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)


同居人が注文した本が届いた。
そのなかの一冊を先に読ませてもらう。

 「散歩がてら帰ろうか?」
 「いいね」
 居候は犬のようにあたふたと喜びながらついてきた。
 「鬱のときはさ、呑川んとこ歩くのよ」
 うちのすぐ裏だ。汚い川だ。それでも少し涼しい風が吹く。秋の虫が闇を覆うように鳴いている。
 「へっ、なんで?」
 「真っ黒だから」
 「川が?」
 「うん」
 祥一は少し黙ったがすぐにまた、
 「優子ちゃん」と言った。
 「月が映ってるよ、満月だよ」
 「月も裏側は真っ暗だよ」
 祥一は笑った。
 「当たり前だよ、月だって人だってそういうとこはあるよ」
 私は少しバカにしすぎていたかもしれない。
 寝ぼけた蝉がジジッと鳴いた。祥一がすかさず叱った。
 「夜なんだから寝ろよ、蝉」p75-76(「イッツ・オンリー・トーク」)


「場所」もやっぱり「ただのお話」のようなものなんだろうか。

 車から降りると順子はその場に立ちつくした。ある種の鉱物を思わせるような鮮やかな青い湖面が、強く彼女をとらえた。
 「こんなとこ、はじめて」順子は言った。
 「だろう?」
 篤は湖の一番奥を指さした。
 「あそこにロッジがあるんだ、それで道は行き止まり」
 「その向こうは?」
 「新潟。山越えても何もねえけど」
 ほかに人工物はなにひとつ見あたらなかった。日曜日だというのに、人の気配もまるでなかった。風の音が止むとあたりは静寂に包まれた。
 「でっけえ天気だなあ」篤は言って真っ青な空を仰いだ。
 順子は携帯灰皿を取りだして煙草を吸った。全てのことから解放されるような旨い一服だった。
 「なんだかこの世の果てみたい」
 「俺は逆だな。ここが世界の始まりだよ」
 「そう?」
 「何度来ても昨日生まれたような感じがするんだ」
 「ああ、全部嘘だったような気がする。私がまだ高崎に住んでるみたいな」
 「ここは不思議な場所なんだよ」
 馬の天国というのはこんな場所かもしれない、と順子は思った。p176(「第七障害」)

 月並みだ。しかし月並みなこと以外に何を死者と話せばいいのだろう。p96(「イッツ・オンリー・トーク」)


やっぱりこれも引いておこう。
距離の解消が不能でありながら、互いのあいだに鳴り響く関係としての真理?
コンステラツィオーン?

 痴漢は明るい目で言った。
 「その座標はね、タテヨコだけじゃないんだ。クロスの繋がりもあるからね」


 私はその言葉をかみしめた。社会性を縦軸として魅力を横軸にとったらどうなるだろう。私は自分の、EDの議員の、鬱病のヤクザの、元ヒモのボランティアの座標分布を思った。
 たまたまそういう話が判るのが痴漢だというのが不思議な気がした。彼はただ下劣な座標であれば良かったのに、私の考えを理解する珍しい人になってきている。関係のない遠い星を結んで出来た星座を思い浮かべた。p80(同)