『雷鳥の森』


雷鳥の森 (大人の本棚)

雷鳥の森 (大人の本棚)


森と森に生きる命たちを必要とする野性と理性とがある。
そして人間たちに歴史があり、森の生命たちと複雑に交錯する。

 堰のところで、別れ際に彼が言った。
 「さて、決心はついたか」
 答えを言い出せずにいると、彼はひと言、こう言った。
 「すっかり後方にまわったというわけだ」
 彼は踵を返すと、戦地でわたしたちが口ずさんでいた古い歌を口笛で吹きながら、遠ざかっていった。自分という人間が変わってしまったことを、このとき思い知らされた。人並みの暮らしにとらわれてしまったことを、職場、家族、家。日々のもろもろ。新聞、本、シーツをしつらえたベッド、テーブルクロスをかけた食卓。長椅子、ラジオ。ゆっくりと変化は起きていたのに、いま初めて、そのことに気づいたのだった。いまでも雨の下で、あるいは雪の中で、眠ることができるだろうか。何も口にしないまま、何キロも何キロも歩く日々に耐えられるだろうか。p28-29(「オーストラリアからの手紙」)

 酷寒の夜には、ノウサギたちが河岸に餌を求めてやってきた。その物音を偵察隊と思い込み、恐怖に駆られて発砲する者もいた。彼は何度もノウサギの姿を見かけたが、決して撃たなかった。人間が殺し合っていることを思うと、せめてウサギたちには生きていてほしかった。戦争の故に救われるものがあってほしかった。夜明けが近づくと、対岸から狙いを定めやすくなるので、撃ち殺されまいと神経を張り詰めた。おそらくあのシベリア人たちも猟師だったのではないか。冬の撤退のさなか、ノウサギが一匹、行軍の隊列めがけて駆けてきた。ただならぬかくも大勢の人の群れに驚いたウサギは、隊列を横切ろうとした。人びとの叫び声に怯え、兵士たちの足の間をぬって走りまわり、だれひとりそいつを捕まえられなかった。ようやく列の外に逃げだしたとき、小銃と機関銃の両方がそいつをめがけて火を噴いた。うろたえたウサギはジグザグにすばやく走りまわり、そうやって雪の中を駆けているそいつを見ているうちに、こんな気持ちになった、《もしあいつがうまく逃げおおせたら、おれも切り抜けられるだろう》無事に逃げてくれ、と祈った。p40-41(同)

 果たしてもう一度、人に向けて銃を撃つことができるだろうか。ギリシアで、逃げていく数人の兵士めがけて発砲したことがあった。だがひとりが倒れるのを目にした瞬間、手のひらの中の熱くなった銃を投げ捨てていた。なにもかもこの場に放り出して故郷に帰りたい、という激しい想いがこみあげてきた。それからはアリやマムシでさえ、殺すことはなくなった。それなのになぜ、キバシオオライチョウを撃つのか。ヤマウズラを。シャコを。クロライチョウを。自分でも理由がわからなかった。だが、それは必要なことだった。なぜならその瞬間に、自分ほど自由な者はいない、と感じることができるからだ。あるいはこう言ったほうがいいだろうか。自由を感じるというより、そのとき、すべてが消えるのだ、と。仕事の苦労、日々の雑事、世間で暮らしていくことにともなう義務や責任、その他すべてが。p45-46(同)