『開かれ』


開かれ―人間と動物

開かれ―人間と動物


人間が、自分たちと動物たちとの間に境界線を引いて、だからここからこっちは人間だよ、ってやり方(「人類学機械」)は、どうも無理なんじゃないか。
ハイデガーは「人類学機械」を信じて、ぎりぎりまで線引きを試みたけど。
アガンベンはしかし、ハイデガーを忠実に読み解くことによって別解へと赴く。
「例外状態」(カール・シュミットアガンベン)としての「開かれ」。
(これは訳者多賀健太郎による「解題」が参考になる。氏が、「人間は狼のように冷淡に振る舞うことができる。」というヴィットリーニの言葉(『人間と人間にあらざるもの』)をエピグラフのひとつに使っていたのは、びっくり!)。
「人類学機械」を停止させ、つまりは規範の適用を宙づりにし、「中心に空虚を見せてやること」、あるいは人間と動物をめぐる政治学を「静止状態」(ベンヤミン)のうちでとらえること。
しかし、線引きに代わって提案された「人間と動物の無為に身を曝すこと」、あるいは「人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす『大いなる無知』の形象」の裏側に、どんな具体的な「政治」が思い浮かべられているのかは、不明。

 われわれが気晴らしで時間をつぶそうとするのは、空虚のままに残されてあることが倦怠の本質的体験であることの証である。われわれはふだんいつもさまざまな事物によって、そしてさまざまな事物のなかで時間を費やしている−−むしろハイデガーは、動物とその環境との関係を定義することになる用語を先取りするような言い回しによって、「われわれは諸事物にとらわれ、それらに熱中さえし、しばしばそれらに放心さえしてしまう」ことを解明しているのだが−−一方で、ひとたび倦怠に陥ると、たちまちわれわれは空虚のなかに放置されてしまうのである。だが、この空虚のなかで、諸事物はたんにわれわれから「取り去られ無にされる」わけではない。つまり、諸事物は存在するのだが、「われわれに差し出されるべき何ものをももっていない」のであり、われわれとは完全に無関係なままにとどまっているのである。だが、そうだからといって、われわれはそれら諸事物から解放されるわけではない。というのも、われわれは、われわれを退屈させるものに釘づけにされ足止めされてしまうからなのだ。「何かに退屈させられてしまうと、われわれはうんざりした当のものに引き止められ、それを放っておくわけにいかなくなる、あるいは、なにがしかの理由からそれに拘束され束縛されてしまうのである」(ハイデガー形而上学の根本諸概念 世界−有限性−孤独』)。
 まさしくここにおいて、倦怠が根本的気分のようなものであり、本来的な意味で現存在を構成するものであることが露わとなる。『存在と時間』で論じられる不安は、この倦怠に対する一種の回答、あるいは送り返された反作用のように思われる。p98-99

しかしながら、この移行、この生きた人間の現存在化〔diventare-Dasein〕(あるいは、ハイデガーが講義録でも書いていたように、現存在という重荷を人間として引き受けること)は、動物の環境の境界を超えたところで、それとは無関係に獲得される、いっそう広大で光輝に充ちたさらなる空間に向けて開かれているわけではない。逆にこの移行は、抑止解除するものとの動物的な関係を宙づりにし不活性にすることをつうじてのみ開かれる。抑止解除するものを宙づりにし不活性のままにとどめる(休閑地で耕さないままに放置しておく)ことによってはじめて、動物の放心と露顕せざるものに曝されていることそれ自体を把握することができる。開かれ(アペルト)、存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない。開かれや存在の自由は、暴露されざるものそのものの顕現であり、開かれを見ないヒバリの宙づりにして生け捕りなのである。動物の放心とは、人間界とその開かれ〔Lichtung〕の中心に象嵌された宝石にほかならない。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかならないのだ。実際、開かれ(リヒトゥンク)は、この意味で、不合理な説明(ルクス・ア・ノン・ルケンド)なのである。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。p105-106

存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ(リヒトゥンク)は元をただせば無化(ニヒトゥンク)なのである。というのも、世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからである。なるほどたしかに、生物は、存在を知らないように、無を知ることもまたない。とはいえ、存在は、「無という澄んだ夜」のさなかに立ち現れるのだ。それはひとえに、人間は、深き倦怠を体験することによって、生物と環境との関係をあえて宙づりにしようとするかもしれないからである。忘却(レーテー)−−講演の前口上によれば、存在を思惟されないままに与える本質化するもの〔das Wesende〕として、開かれのうちに君臨しているもの−−とは、動物の環境の露顕されざるものにほかならない。それゆえ、忘却の記憶とは、露顕されざるものの記憶、世界が開示されるかもしれない一瞬前の放心の記憶を必然的に意味することになる。本質化するとともに存在のうちに無化するものは、「存在しているにせよ存在しないにせよ」動物の抑止を解除するものからは生じない。現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと−−苦しくとも決然と−−開くということこそが、人間にほかならないのである。p108-109

ヨーロッパの国民国家がもはや歴史的使命を帯びることができず、人民たち自身もいずれは姿を消すべく定められていたということは、ある意味では、第一次世界大戦終結以来すでに疑いの余地のないことだった。もし二○世紀の全体主義に、一九世紀の国民国家の最後の大きな使命の継続、つまりはナショナリズム帝国主義しか認めないとするならば、この大規模な経験の性格は、完全に誤解されることになる。二○世紀のさまざまな全体主義で賭けられているものは、そういったものとはまったくちがうものなのであり、もっと過剰なものだ。なぜなら、そこで問題になっているのは、人民という人為的な存在そのもの、すなわち、結局のところは、人民の剥き出しの生を使命として引き受けることなのだから。こうした視点のもとで、二○世紀の全体主義的体制は、ヘーゲル-コジェーヴ的な観念とはまったく別の相貌を帯びた歴史の終焉をかたちづくることになる。すなわち、人間はその歴史的な目標=結末(テロス)に到達してしまい、ふたたび動物と化した人類には、家政=管理を無条件に拡張することによって、あるいは、生物学的な生そのものを最高の政治的「あるいはむしろ非政治的)な課題に格上げすることによって、人間社会を脱政治化する以外に何一つ残されていないということである。
 もしかすると、われわれが生きている時代は、このアポリアから脱しきれていないのかもしれない。p116-117