『ベンヤミン解読』


ベンヤミン解読

ベンヤミン解読



 だが、そもそもいったいなぜ過去なのか。現在と未来を切り開くものが、なぜ過去のうちに求められねばならないのか。これに答えるには、『ゲーテ 親和力』の末尾に置かれた言葉を思い起こしてみるのがいいだろう−−「希望なき人たちのためにのみ、希望はわれわれに与えられている」。この意味深長な言葉ほど、ベンヤミンという人物を語り出すものはないかもしれない。ここには、いささか悲痛すぎるともいえる彼の現在認識が横たわっている。すなわち、純粋に今のわれわれだけにとっての希望なるものなどどこにも存在しないということ、われわれにとっての希望は、『親和力』の滅びゆく主人公たちにせよ、救済を閉ざされたバロックアレゴリー詩人たちにせよ、商品経済のなかで古くなって廃棄されたキッチュたちにせよ、いかんともしがたい絶望のなかで没落していったものたちのもの言わぬ姿のうち、そこにのみ一瞬逆説的なかたちで浮かび上がるしかないということだ。p147

 『ベルリンの幼年時代』がベンヤミン自身によってあえて「追想ならぬ追想」と称されているように、過去に向けられた彼の屑拾いは、そもそもそうした思い出ならぬ思い出と言ってよく、じっさい彼自身、これを独自の用語で「想起(Eingedenken)」と呼びならわしてもいる。彼にとって「想起」とは、基本的に「追想(Erinnerung)」に対立するものとしてあった。たとえば『物語作者』では、「追想」が「起こったことを世代から世代へ語りつないでゆく伝承のために鎖を提供する」とされているのに対して、「想起」は「ひとりの主人公、ひとつの彷徨、ひとつの戦闘に捧げられる」とされ、前者のもつ連続性に対して、後者のもつ非連続性(単独性)が強調されている。言い換えれば、「追想」が、過去の出来事を記憶の連続性のなかにはっきり定位させるものとして、「意識によって馴致された体験(Erlebnis)」の領域に属しているのに対して、「想起」は、それとは対照的に、「記憶のなかに合流し蓄積された、しばしば意識されていないデータによって形成されている経験(Erfahrung)」の領域に属しているということだ(『ボードレールのいくつかのモティーフ』)。p142

 中国人もろとも絵合わせゲームを踏みつけにするあの冷ややかな女主人をこそ、打ち倒さなければならない。しかし、一口に打ち倒すと言っても、いったい万華鏡を打ち砕くとはどういうことなのだろう。たんに、かつてあった秩序の像と、今眼前に新たに現われ出た秩序の像とを断絶なく連結する「それなりの正当性」をいったん停止させるとともに、その不当性と欺瞞性を暴露的かつ破壊的に暴き立てて、その代わりに別の「正当性」なるものを打ち立てるだけではすまないことは言うまでもない。それだけでは、いわばひとつの万華鏡に代わって別の万華鏡を作り出すだけのことであり、変幻自在の万華鏡の呪縛そのもの、永劫回帰の呪縛そのものを打ち破ることにはならない。ここで要求されるのは、いかに困難だとはいえ、脱中心的な異・秩序へと向かう破壊のなかで、自らが代わって新たな不動の万華鏡と化すのをあらかじめ封じておくこと、自らが作り出した新たな秩序の中で自ら硬直してしまわないような論理を越えた論理、自らの論理そのものをどこか開けたところに向けて解消させてしまうような視座をあらかじめ確保しておくことである。p175