『ベンヤミン 「歴史哲学テーゼ」精読』


ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫)


「あたかも最後の日に臨んでいるかのように」(マルクス・アウレリウス『自省録』)


自分が救われるかどうか、ではなく、未来、でもなく、
(「末期の眼」の有効利用)
他者(死者)たちの希望に応答しようとすること。

ローマは事実としてのローマである。それはすでに運命が決まっていた。しかしひとたびフランス革命によって「引用され、呼び戻される」ローマは昔のローマではない。過去の事実としてのローマは、革命の「いま−こそ−その−とき」の決断によって、「新しいローマ」へと変換されて生成したのである。そしてこの新しいローマを迂回することを通して、ローカルな事件が世界史的事件に変貌する。ローマとパリは相互にそれぞれの効果の結果であり、歴史的行為の構造をもつ生産の成果である。p147

これは回り道にみえるが、この迂回路なしには現在の思想の闘争のなかで勝利の展望をもつことはできない。過去のなかに何かを学ぶといったことではない。過去を学ぶ(たとえば教訓として)ことはけっしてできないし、事実、人間は過去の教訓を現在に活かしたことはない(この点はすでにへ−ゲルが指摘している)。過去から教訓なるものを学ぶとか模倣するといったことではなく、過去の野蛮な歴史の犠牲者を救済することである。p138

 同じく「まだ−ない」といっても、未来優位の時間論における未来的構想(ヘーゲル)や「自分だけの死の可能」(ハイデガー)とベンヤミンの「目覚めを待つもの」とは違う。ベンヤミンにとって、未来構想や自己の現存在の成就は問題ではない。彼がいうように、希望は他者たち(過去の死者たち)のためにあるのであって、現在のわれわれにあるのではないからである。「われわれ」に与えられているのは、過去の可能態としての死者たちの「希望」に応答し、その声に耳を傾け、その期待を実現させる「使命」のみである。ベンヤミンの歴史的時間は、こうして、「いま−こそ−その−とき」の切断と過去への遡及から開始する。p177-178


「いま−こそ−その−とき」は、ベンヤミンの特異な用語「Jetztzeit」の今村氏による苦心の訳語。