『夢ゼロ夜』

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 こんな夢を見た。
 車を運転してゐる。さうして山陽自動車道を走つてゐる。明石大橋を渡り、津名・一宮インターを降りて、しばらく陽光を照り返す海原を左手に見ながら、国道28号線を下つてゐた。すると隣の紳士がはじめて口を利いた。
 「(覆された宝石)のやうな朝」*1
 自分は、思はずハイと答へてから、はつと気がついて顔を覗き込んでみると、男はやはり西脇順三郎であつた。氏は、それぎり口をつぐんだまま、「戸口にて」とも「神の生誕」とも云はない。
 黙つたまま、林立する巨大な人間のオシベを掻き分けるやうにして進む。ずんずん先へいく。立川水仙郷の脇に建てられた「ナゾのパラダイス」といふ名の館である。そのいちばん奥に丁度人間の背丈ほどの木箱が大きな黒い口をこちらに向けて立つてゐる。近づいてみると、蒲鉾板くらいの木切れが打ちつけてある。彫られたローマ字は、どうやら自分の名前であるらしい。
 自分は、誘はれるやうに黒い窪みに身体を添はせた。すぐに綿のやうなものが膨らんで、やさしく、それでゐてしつかり全身を包みこんでくる。するするとベルトも自動的に装着された。行き先を尋ねる声がしたので、黒岩水仙郷と答へると、大きな木箱は、電気自動車のやうに滑りはじめた。先生はどこに行つたか、もう居なかつた。自分は、明るいものを目掛けて闇の中を飛んでゐるやうな気持ちでゐた。
 大勢の人たちが行列をつくつてゐるのが見えた。臨時駐車場に誘導された観光客が、送迎用のシャトルバスを待たされてゐるやうだ。するといきなり水仙が現れて、ははあ怒つたな、と云つて笑つた。見たかつたら並んでみろ、と言つた。怪しからん。水仙がなんだ。花言葉は自己愛のくせに。
 降りますか、と木箱が聞いた。黙つてゐると、どちらへ、とまた訊いてくる。こいつ、おれの心が読めるのか、と思つたらすぐさま、福良ですね、ときた。ああ、うまい寿司屋がある。
 寿司屋に入つてみると、自分の木箱は水槽になつてゐる。水槽には、黒い車海老が泳いでゐる。もうひとつ水槽があつて、そこにはアワビが沢山入つてゐる。やはりその水槽に運ばれてこの店に来たらしい男が、ひとりカウンター席に座つてゐる。
 「おれは小屋にかへらない」と、男はこちらを見ないで云つた。先日、自分が注文しそこねたテッサを、男はすでに平らげたあとのやうだつた。「ウイスキーを水でわるやうに」と、また男は云ひ、揚げたてらしいタコの天ぷらを口一杯に頬張つた。自分は、自分の腹が鳴り出さないか、ちよつと心配になつた。男の顔は、間違ひなく田村隆一そのひとのものだつた。
「言葉を意味でわるわけにはいかない」*2
 一宮まで戻つて温泉に入つてゐる。尻の下から、ぶくぶく気泡が出る。お湯でなら、自分を割れる。そんなはずがなからう。いかな自分でも、あまりに呑気すぎる。泡と湯気で目の前が真つ白になつた露天風呂に首までつかり、目をつぶればそのまま夢を見てゐることを忘れさうになる。
 いや、さうぢやなかつた現実だつた、と目蓋を閉じる前に確認した、目の前にあるはずの白い世界をもう一度思ひ浮かべる。さうして思ひ浮かべたあとにそつと目蓋を開いてみるのだが、どうしても光のまぶしさに目が眩む。自分が今どこに居るのか、わからなくなる。二度、三度とやつてみても同じである。四度目には屹度、目をつぶる前に見たものがそのまま見える。予感があり、やつてみたら、今度は寝室の壁紙が見えた。

*1:西脇順三郎「天気」冒頭(『Ambarvalia』)西脇順三郎詩集 (岩波文庫 緑130-1)

*2:田村隆一「言葉のない世界」結尾(『言葉のない世界』)田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)