『紀子の食卓』


@第七芸術劇場。園子温監督作品を見るのは、たぶん初めて。

鮮やかな色彩の配合、光量の多寡のバランスがすばらしい。様々な媒体でもたらされる文字と、それらに重ねられたり、ずれたりしていく幾種類もの声。多層的になった時間は、やがてわたしの過去とも溶け合い、わたしたちは交換されながら、わたしたちの現在こそが画面となって、いまそこに映し出されていく。その多彩に画像処理された画面は、しばしば溢れる光で被われる。そしてあのユカの気持ちのよさそうな朝を迎えるためには、彼女は(わたしたちは)二度、その夢から(現実から)覚めなければならない。
役割というのは、押しつけられるものなのか、選びとるものなのか。しかし役を演じることこそが真実を生みだすのだとしたら、その役を選びとることと、押しつけられることとのあいだに、違いなんてあるのだろうか。選ぶという行為そのものが、強いられた役割としてのそれかも知れないのだ。家族にしたって社会にしたって、その点では同じだ。それでもそうした円環地獄から個人が生まれるためには、関係とか役割といったものから、自ら意志して出ていこうとすることが、なければならない。もちろん、外になんか出られない。しかし映画が求めているのは、客観的に自己の役割を認識することなんかじゃない。第一、そんなものはありえない。そしてライオンであれウサギであれ、それが役割であると認められさえすれば、楽になれるのである。どこかにだれかの命令を仮構してそれを覚悟として死んでみせるのではなく、わたしたちが要請されているのは、もっと困難な「自覚」であり、行為として生きられた形での、世界の内における自他の切り分けである。まずは、生き延びるためのものとしての。
紀子が家出の前に久しぶりに再会した幼なじみのミカンちゃんは、一見まぶしい存在だ。しかし紀子がラスト近くでもう一度その幻を見るときには、イメクラで働いていた彼女はもはや行方がわからなくなっている。ミカンちゃんは、雪の夜、以前の住まいそっくりに用意された家の庭に、天使のように現れる。父は蜜柑の皮を剥くと丁寧にそれを折り畳む。灰皿の上に置かれたそれが、しかしゆっくりと、蕾が花開いていくように、元の形に戻っていくのを紀子はかつて見ていた。彼女が見る幻のミカンちゃんの掌のうえに載っているのは、皮が剥かれる前の、みかんだ。
コートの袖から出たほつれた赤い糸は、父のナイフのようにポケットに入れるのでもなく、姉のようにこじつけで作りあげられた他人の思い出に添えてコインロッカーに入れるのでもなく、ごくあっさりと捨てていかねばならない、と映画はいうのだろうか。マイク真木の「バラが咲いた」が、あんなに美しい曲であったとは。ユカを演じた吉高由里子が魅力的。この映画をヒッチコックの2作でサンドイッチにして紀子の食卓のうえに置いておこう。ライオン−ウサギの「環」から抜け出ようとするユカなら食べ逃げしてくれるかも知れない。